第二章 水中世界

19/J

波に混じり、丸い音が聞こえる。

心臓が揺れる。

音の方を見つめると堤防に一人の女性が足を投げ出し座っているのが見える。生温く心地良い潮風に靡かれる色素の薄い髪が夕陽の光によって薄い金色に見えた。女性は海の方を向いて黙って指を動かし、その手に小さな木の箱を持っている。東灰海から島の円周に沿って南へ向かっていた潤は自分の意思とは思えない感覚の中、気づいたら女性のそばで、箱についた数個の鉄の棒が彼女の親指に撫でられているのを眺めていた。黙ったまま近づき、黙ったまま直視するのに彼女は同様することなく、滑らかに演奏している。あまりに潤が動かないものだから頰を少し緩めながら、投げ出していた足をしまい、こちらに向き合うようにして演奏した。まるで自分だけの為にその音があるかのように思えた。時々上目遣いに潤の反応を気にしている。

 曲が終わりに差し掛かった時、ようやく彼女の目蓋や鎖骨に痣があるのに気づいた。腕が露出した簡素なワンピース。指が止まり、海の底のような黒目で見つめられた時、その手を握り、走っていた。どこまでも、行けるところまで走った。彼女は何も言わなかった。遠くの方で何かを叫ぶ誰かの声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思う。行く宛など無い。ただ、彼女にはずっと音を出していて欲しかった。ずっと彼女の音が聞きたくて、その思いだけだった。自分たちは多分泣いていた。互いの顔を見ずとも分かった。この一瞬、自分たちは確実に逃げ切れていた。確実に自由だった。振り返った時、彼女の顔は海から顔を出したかのように光っていて晴れやかだった。でも、さっきまで手にしていた木の箱はなかった。走っている最中、落としてしまったのにもかかわらず、足を止めることなく潤について来たのだ。いや、落としたのではなく、捨てたのかもしれない。どっちにせよ、彼女は美しい顔をしていた。



 足を止めた時、薄暗い山の中にいた。高い木と細い一本道。それしかない。一気に虚無感に囚われる。自分たちは一体何をしているのだろう。少なくとも潤は後悔した。彼女にしてやれることは何もない。それなのに勢いだけで連れてきてしまった。彼女はもう帰れない。自分は何もできない。

 山の下からジバの連中が追ってくるのが分かった。なんという不運だ。全身の体力を使い果たした潤は崩れ落ちそうになった。彼女はもう動けなかった。それでも、潤は女性を引きずるように運んだ。捕まることが決まっているのに動かないことを体は許さなかった。連中が距離を詰めてくる間、感情に流され彼女の手を引いた自分を恨んだ。ジバの手にかかる前に彼女を自分の手で殺すことも考えた。


「待て!」


 全部で三人。女性を背後にまわす。


「逃げるということはハイマか?」

「違う」

「嘘つけ」


 今の体力で一人のゾーオンを庇いながらこの数を相手にはできない。爪を出すか、嘘をつき通すか。変に反抗すれば瞬殺される。ここは何としてもゾーオンと言い切り、奇跡的に見逃してくれることを願った。

 ジバの一人が潤に近づいた時、


「触らないで!」


 彼女は潤の目の前に来ると、気づいたらジバの手によって倒れていた。一瞬の出来事だった。

 ジバが血のついた爪を舐めて笑う間、潤は彼女のそばに崩れ落ちていた。全身の震えは怒り、憎悪、後悔からなのか。


「なんで、なんで……」


 この人はやはり、晴れやかな顔をしていた。どこで生まれ、どこで育ち、どのように生きてきたのか。何故私について来た? 何故私を触らせなかった? そういう言葉が頭を回った。


「見つけてくれて、ありがとう、アサ」


 女性はそう言うと一筋の涙を流した。


「え……」


 そしてパタリと動かなくなった。


「おい貴様」


 彼女が死ぬ意味が何処にあったのだろうか。


「おい、アサと言ったな。貴様はハイマじゃないのか?」


 爪を出さない潤をジバは覗き込む。


「……ただのゾーオン」

「ゾーオンらしくない速さを見た気がしたが」

「それは彼女……彼女は違うみたいだった」


 締まった喉から声を絞り出し、潤は女性を利用した。ついてくるように言われ、彼女を冷たい森に置いて行くのが辛かった。けれど、今は身をまかせ、体力が戻った頃にどうにか逃げるしかなかった。

 黙ってついていく中で、ジバの領域に向かっているのだと分かった。ゾーオンとなった自分は何の為に迎え入れられるのだろうか。


 



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