18/J



櫂吏カイリ様の御到着だ!」


 地場櫂吏ジバ・カイリ_____

 

 体が震えた。潤は咄嗟に俯き、髪で顔を隠す。

 ジバの連中は潤を通り過ぎ、左右に二つの円を作るゾーオンたちの間を、中心を歩いていく。

 その中で、先頭に二人のジバを置き、観音扉の方へ歩く長身の男だけがマントのように布を纏っている。後ろ姿しか見えないが、その存在感は圧巻だった。髪は端正にセットされ、その黒髪は滑らかに固められている。

 長身の男続き、実に数十人の刺青顔がそこにはあった。最後に入ってきた愛地は潤のすぐ目の前にいる。

 ゾーオンたちは櫂吏に会えて光栄な気持ちと、ついさっき起こった潤たちの事象に整理がつかず、ただ狼狽える。


「おい貴様ら、合図無しにもう奴らを用意したのか」


 そうジバが檻を見て声を荒げる。


「自ら入ってやったのさ。感謝しろ」


 びくつくゾーオンたちに言葉を発させまいと深波は透かさず言い放った。

 女の方は死んでます、と右側の檻に近づいたジバが言う。

 深波は一体何をしているのだろうか。ジバたちに視界を遮られて潤には彼が見えない。声しか聞こえない。潤のピーキングを彼は拒否し続けている。


「感謝、ですか?」


 大人の男の声がした。


「そう。新しい世界を作りたいんだろ? 死んでやるよ」


 深波の態度に反抗しようとしたジバを制するためにマントの男が不意に上げた手が見えた。

 そして、深波の檻へ近づこうと彼が動き出したのが分かった。動線を開けるためにジバたちが動いたことで深波の姿がしっかりと見える。男が深波に近づくほど潤の拳の圧力が増す。


「元町長の後継者……これほど……実にもったいない。泣いて懇願すれば考え直しても良いですよ。私は美しい人には甘いのです」


 低く柔らかみを帯びた声色は丁寧で非常に嘘っぽい。


「あんた誰?」


 尖った深波の台詞に空間が静まりかえり、波の音だけが際立った。


「はい?」


 男の寄せた眉間から不服感が滲み出る。


「あんた、誰?」


 深波は真っ直ぐに嘲笑うような目で男を見つめた。

 自尊心を傷つけられた男は檻から一歩引き、自身の口端を舐めながら深波を睨み見る。深波もまた彼に挑発する視線を送った。

 潤は深波の意図を完全に悟った。

 わざとだ。わざと男を挑発し、早く処刑させようとしている。全てはこの自分の為。自分のために彼は自らを犠牲にし、自らの命を捨てて、自分を生かそうとしている。後継者の使命は? 脱出は? 海の先は? 夢は? 何故自分なんかのために彼が死ぬのだ。どう考えてもおかしい。何年も深波が全てだった。深波に憧れて、追っていた。それなのに彼がいなくなれば自分はどうやって生きればいい? 彼のいない世界で何を感じて生きていくの? 死ぬべきじゃない。彼には使命と夢がある。死ぬのは彼じゃない。このままだと自分は彼の全てを奪う。どうとっても彼は死ぬべき男じゃない。

 潤は悔しくて声が出そうなのを堪えた。この期に及んで自分はどうして堪えようとするのだろう。嗚咽を手で抑え込む。狂おしい思いが悔涙となって溢れ出した。


「状況を理解していますか? 私の一声であなたはもう二度と地に立つことはできないのですよ」


 潤の漏れた嗚咽に前にいる愛地が振り返る素振りを見せたが、


「誰もが!」


 その瞬間発せられた深波の声に彼は視線を戻す。

 まるで彼らしくない、怒号にも似た、切れのある鋭い響きだった。


「誰もが、最期に命乞いするとは限らない。僕は自分の思い通りにしか生きない」


 静まりかえった海上で、また波の音だけがしている。

 一拍。

 顎を左右に揺らし、ジバのボスは本性剥き出しに笑いだす。


「思い通りに生きる? これから死ぬ身で何をほざいてる」

「使命を果たし、夢を叶える」


 潤の見る深波は真っ直ぐに男を見つめている。でも力強く張った彼の言葉は___


 『潤、僕のためなら何だってしてくれるよね』


 数分前の言葉がよぎる。それを皮切りに深波と過ごした十数年間の記憶が脳裏を駆け巡る。

 深波は何も諦めていない。僕は自分の思い通りにしか生きない? 上等じゃない。潤にそんな思いが込み上げる。まだ作戦の最中なのだ。この状況もこれから起こる状況も全てが彼のシナリオなのだ。酷いシナリオ。彼の作戦を絶対に成功させなければならない。


『いつか証明しよう、一緒に』


 自分から言い出したことだ。もうすぐ自分の体は二つ分となる。やるべきことが猛烈に思考を支配する。

 ジバたちは入り口の方へ戻り、整列して観音扉を見上げた。男はジバが立ち並ぶその奥で海水に浸かるキングチェアに腰掛けた。


「歩け!」


 男の声が響き渡る。

 波がたった。

 深波の細胞が自分と重なる。

 潤は自身の震える体を感じ、そう思ってしかたなかった。

 身体中に鳥肌が立つ。

 深波が重なる。

 じわじわとしなくても潔く乗り移れば良いのに。何にも心配はいらないから、ずっと離れないでいて。

 海水をかき分ける潤の足取りは軽い。前しか見えない。深波と共に脱出する。扉に隙間ができ、陽光が眩しい。眩しくて目を瞑りそうになる。あと少し。もうすぐ届く。光が自分を待っている。

 扉は完全に開き切った──大量の光が入ってくる。檻が海水に浸かりきったのだ。




 陽を浴びた潤の顔に涙は一滴もなく、目はだけは碧く、濃く据わっていた。


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