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三十二年前、本土、研究室──


【ハイマ実験研究棟】


 その厳重すぎる扉の前には意味を持たない形だけの警官が二人立っていた。


「もっと……あげてもらえ、ますか」


 拘束器具をつけたまま椅子に座った、生と死の境界線で、青年は喘ぐ。

 異様なほどに開かれた目玉はガラス壁の向こうにいる人々を睨みつけ、しかし時折、青年の意思にかかわらず、部屋の隅々を見回すように動いている。

 白衣を着た何人もが、腕を組みながら興味深く彼を見つめていた。紙とペンを持っている者もいれば、ずっとパソコンのキーボードを叩いている者もいる。


《これ以上は前例がない。命の保証はできないぞ》


 研究室のスピーカーは古くて聞き取りにくい。


「お願い、します……」


 器具から電流が流れると青年の体は酷く硬直した。体内の水分が着用したおむつに放出され、ガクガクと震える手先に違和感を感じ始める。手を動かしていた者はいつしか動作が止まっていた。


「もっとぉ……」


 呂律が回らなくとも、目だけは異様にギラついている。

研究者たちは身震いした。気力だけで耐え、闘志をも感じる青年の迫力に圧倒された。

 その瞬間、全身から何かが生まれるような絶叫に研究室は静まり返る。


《す、すごいぞ、これは……》


白目の裏で青年の意識が数年前へと流れていく──会場を包み込むたまらない熱気。


『突如現れた新世代のエース! 十七歳にして圧巻の動体視力!』


 実況の声が痛いくらいに大きい。

ゴングの音が鳴り響き、大歓声が聞こえてくる。

 リングの上で、汗を撒き散らす少年は目の前の相手を見据えた。今日も自分の中に潜む獣を解き放つ。

 シャワーを浴びて控え室に戻ると、さっきまで対戦相手だった選手が「はい、お約束の」と栄養ドリンクを手渡してくる。勝った少年は有り難く頂戴した。


『やっぱお前は強いな。異常だよ』

『いえ、たまたまですよ』


 それ毎回言ってるぞ、と相手は頭を掻きむしり笑い、ベンチへ腰を下ろした。


『……でもさ、お前はこの世界に満足してるか?』


 蛍光灯の影が男の顔を半分隠す。


『はい、楽しいっす』


 あどけない笑みを見せる少年に「どういうところが?」と顎をさすりながら問いかける。


『楽しいというか、みんなに見てもらえて、応援してもらうのが嬉しいというか』


 そっか、と微笑み立ち上がり、今度こそ帰宅する素振りを見せる。

 男は開かれたドアの前で一瞬立ち止まり、少年を向かずに呟いた。


『なんて言うか……見せ物小屋みたいだよな。ここ』

 


 青年の目が開いた時、音程の微妙な鼻歌が鼓膜を打っていた。白髪の混じった髭面の男がベージュのソファに座り、優雅にコーヒーを飲んでいる。


「おかえり」


 満足げな笑みを浮かべてコーヒーを啜った。ローブを纏った青年はベッドの上で勢いよく上半身を持ち上げる。


「先生、どうでした?」


 ん? と分厚く長い眉毛を下げながら男は部屋を出ていき、そしてショーケースを手にして現れた。


「これが、私のファングネイル……」


 ショーケースに入ったわたの上に数センチの爪の破片が二本落ちている。

 男は涙する青年の背中をさすった。

 ……やはりハイマだった。ファングネイルがその証拠だ。


「学会へ報告します。早速ニュースになるでしょうな。実物のファングネイル、いくらで売れるやら」


 髭で隠れた口でカッカと笑う。


「売り物じゃありません。貴重な研究資料です」


 と青年が言うと、冗談だよ、と男は髭を摩った。

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