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『夢はあるかい?』


 7年前の夏の日、深波は言った。潤は護衛の目を盗み、深波を灰海街へと引っ張った。海にかかる夕日が綺麗で、二人して飽きるほど眺めていた。燕のようにずっと遠くまでヒューッと飛んでいけたら良いのに。後で今日のことを大瑚に言うと、俺も誘えと予想通り不機嫌になったのが面白い。


『夢かぁ、なんでも良いから名前を残したい』

『潤らしいね』

『深波は?』

『僕は海の先を知りたい』

『先って海の向こう?』

『そう。僕のひいお爺ちゃんはこの海の果てから来た。この海の果てに僕たちの想像を遥かに超える凄い世界がある。父さん達は詳しく教えてくれない。だから自分で証明したい』


静かに目を輝かせる深波の横顔がとても綺麗だと思った。彼がその「凄い世界」に行ったとして、その時自分はどうなってしまうのだろう。


『深波』

『ん?』

『証明しようよ、一緒に』


 そう言ったのを覚えている。




雨に濡れ、街が黒く変化しても山々は相変わらず緑のままだ。根元が抉られ、宿となった大きな切り株に身を寄せる。


「脱出するには船ね」

「灰海街へ向かいながら写真の船のことを知っている人がいないかを探そう」


 深波はシワのついた写真をポケットから取り出して見せた。


「持って来てたの?」

「潤こそ、それ、着てきたのかい?」


 そう眉を下げて微笑まれ、潤はカチッとした胸に手をやる。


「防爪牙、忘れてた」

「役に立ちそうだから着てた方が良い。大瑚もこれで助かってたからね」

「うん」

「じゃあ、早速動くよ」


 頷いた潤の頭に深波の手が乗った。


「僕が一番大切にしているもの、何かわかる?」


 深波の睫毛の隙間、粘膜まで綺麗に見える。


「……わかるよ」



 瓦礫だらけの道で膝をつき、放置されたゴミ袋のように憔悴しきった大瑚が見えた。


「大瑚、家に帰ってたのか」

「流華はいないね」


 ザ・絶望の姿。大瑚、あなたはそこから這い上がれるの? 流華は死んだ? 死んじゃった? なんて聞けるはずもなく、彼は当たり前のように私たちと合流した。

 生き残った自分たちと同じ境遇の仲間たちが集まっているかもしれない。そう思って崩れた学校へ向かったけれど、悲しいくらいに悲惨だった。ファングネイルで殺されたのだろう。死体がちらほらと倒れている。(せっかく生きていたのに……)彼らの目的は何なのか。見た顔もあって、潤はクラスメイトの死を悼んだ。それにしても何故、一人残らず殺そうとしているのだろうか。これはただのテロじゃない。そんなレベルではない。


「二人」


 深波は言った。


「二人が屋上でこっちを見てる」


 黒い空に稲妻が走った。低くなった校舎の屋上。傾斜がかかって別物となった瓦礫の城で悠々と影が姿を現す。雨に乗って影が落ちる。落ちた影があっという間に大きくなり、すぐ目の前に迫ってくる。

 あ、と大瑚が言った時、深波はすでに刺青のハイマたちと戦っていた。潤はファングネイルを出したものの深波の方へ近づけない。大瑚は爪を出すことすらできないでいる。二人のハイマは潤たちのもとへ行こうとするが、深波はそれを阻止していた。

 潤の前で決して屈強でない深波の体が変化自在の鋼のように敵を翻弄していく。噴水が上がった。雨を押し上げた血飛沫が、深波の手によって高く上がる。それはファングネイルが誰かを殺めるのを初めて見た瞬間だった。濁点のついた声を漏らし、一人が倒れ、深波の隙をついたもう一人が、今度はちゃんと潤と大瑚に向かってくる。

 ハイマは爪を出さない大瑚を狙った。

 潤は折れたボルダリング壁の尖った天辺に逃げて乗り、


「爪!」


と叫んだ。

 大瑚は不器用に避けた。そしてまた不器用に避ける。そんなんじゃもたない……! 狙われているのに彼は避けてばかりだ。自分たちが持っている凶器を彼は忘れている。

 深波は弓のようになって敵に蹴り込む。二つの体は一つとなって潤のいるコンクリートの下に激突した。

 最初に起き上がったのは刺青のハイマだ。のそりと立ち上がり、深波を見下ろす。お願い。早く起きて! そして大きく振りかぶる。やばい、このままじゃ、やばい。


 景色が変わる。

 悲鳴がした。

 自分の前で、大きな悲鳴がした。

 さっきの上空景色と違って、自分は今、地面に足がついている。

 ……ハイマは倒れる。

 両手にはべったりと生暖かい血の感触。


「……潤」


 大瑚と目があった。彼は固まって今にも泣きそうな顔をしている。両手の赤黒いものは叩きつけるような雨ですぐに流れていく。

 潤は初めて、人を殺した──そして、初めて人を助けた。

 どっちにせよ、想像したよりも簡単だと思った。







 干して暖かくなった布団を母が取り込んでいる。

 急げ!

 真っ白でふかふかな布団の上に私は思いきりダイブする。小さな私の体はぽすんと音を立てて布団の中へ沈んでいく。このなんとも言えない太陽の香りが大好きだ。私が乗ったままの布団を母はベランダから廊下へ、そして畳の寝室へ引きずっていく。いつものことだ。乗り物みたいで最高に楽しい。

 わかった。これは夢だ。私は今夢を見ている。この映像は実際に見たもので、私は今、私の記憶から夢を作っているのだ。

 誰かの肩が私の肩に触れる。私の右手の横に誰かの左手が見える。

 ねぇお母さん。


「もー重いよ」


 さっきから私の隣で一緒に布団に乗っている子。この子は誰?

 ねぇお母さん。

 この子もこれが好きみたい。私と一緒に肩を揺らし、布団をぎゅっと掴んでいる。


「ねぇおかあさん」

「なぁに潤」


 顔の見えない男の子。私たちは一緒に笑っている。


「おにいちゃん」


 私は言った。


「何言ってるの潤。潤ってば、おかしな子」


 母は私に笑って言った。


「おにいちゃん」

「いないでしょ」


 今度は怒っているように聞こえた。


「潤はひとりっ子でしょ?」


 そう。ひとりっ子。そんなことは知ってるの。

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