第18話
この日は一日中家にいて、那奈と一緒にお笑いの番組を観ていた。那奈は、出てくる芸人の、ひとつひとつのギャグにいちいち喜ぶ。そこまで面白くはないだろう。最初はそう思っていた俺も、那奈の笑い声に誘発されて、いつしかなんでも可笑しく感じるようになってしまった。
「ひっひっひ、は、腹痛い。那奈に釣られてなんでも笑っちゃうよ」
「いや、はは、本当に面白いんだもん」
普段、一人だったらお笑い番組なんて観ても滅多に笑わない俺が、こんなに笑うことができたのは、那奈の誘い笑いのおかげだということは明らかだった。
「ね、雅人。笑うとさ、ストレス解消になるんだよ」
たしかに、その通りだ。たくさん笑ったおかげで、今まで張り詰めていた緊張が、弾け飛んだ気がする。
「もしかして、それを狙って誘い笑いを?」
そう言って那奈の方を見ると、那奈は俺の話など聞いておらず、まだ一人でテレビを観ながら笑い転げていた。
翌朝、俺たちは昨晩のお笑い番組の話をしながら、軽く焦げたトーストを齧っていた。
「那奈って、笑いのツボ浅いんだね」
「ええ、そう? 雅人が真面目過ぎるだけだよ。もっと気楽に人生を生きたほうが楽しいよ」
「たしかに。それはいえてるな。いうて那奈も結構真面目だけどな」
「えっそう? 私ってそんなふうに見られてた?」
「うん、誠実なイメージだね」
「そっか、それも良し悪しだね」
「なんでだよ」
「私もよくわかんない」
「なんじゃそりゃ」
何気ない会話を楽しめるということが、どれほど幸せなことか。一度失って初めて気づいたことである。
突然、スマホの電話が鳴る。田島からだった。しかし出てみると電話の向こうにいるのは、田島ではなかった。女の声だった。一発で多恵だとわかった。
「雅人、私のライン、ブロックしたでしょう どうしてそういうことするの?」
「多恵か。ちょっと待ってくれ。もう多恵とは話す気になれない。田島に代わってくれ」
「これで最後にするから、なんで私たちが元の関係になれないのか教えてよ」
鬱陶しい。正直いって、多恵に那奈のことはあまり話したくない。それに、付き合っている相手がいるということは以前にも話したはずだ。それでも多恵がこれで最後にするというのなら仕方ない。何度だって話をしてやろう。俺の気持ちが揺るがないとわかれば、いくら多恵だって流石にもうしつこくしてこなくなるはずだ。
「だから、それはこないだ話しただろ。今、付き合ってる人がいるんだ。それだけだよ。もういいだろ」
そんなわけない、と電話越しに激昂する。田川とはまた種類が違うが、こいつはこいつである意味恐ろしいやつだ。自分にとって都合の悪い事実は、何ひとつとして受け入れることができないのだ。あくまで自分本位の考え方。俺は多恵のこういうところが嫌いだった。嫌で嫌で、仕方がなかった。そんなわけない、と何度も怒鳴り、何やら早口でまくし立ててくる。まるでマシンガンのようだ。何を言っているのかはまったくわからないが、かなり興奮しているみたいだ。隣にいる那奈を見ると、心配そうにこちらを見つめている。五分近く不満をぶちまけようやく気がすんだのか、段々とトーンダウンしてきた。
「じゃあ、どうしても無理だっていうわけ」
「うん。今となってはもう考えられない。話すのももう終わりにしよう」
「そうなんだね。うん。わかった。ごめんなさい。もう連絡しない。新しい彼女さんとお幸せにね」
「ありがとう。まさかそんなこと言われるとは思わなかったよ。じゃあな、今までありがとう。ちょっと田島に代わってくれるか?」
「もしもし雅人? すまん。多恵がどうしてもって言うから。色々あって大変だったのに、本当にごめん。まさかあんなに発狂するとはな。絶対これで最後にさせる」
「いや全然いいんだ。気遣ってくれてありがとな」
「おう。いやあ、それにしても犯人、捕まってよかったな。また遊ぼうや」
おう、と最後は良い雰囲気で電話を終えた。まったく、多恵は情緒不安定なやつだ。スマホを置いて那奈の方を見ると、目を丸くしてこちらを見ていた。会話の一部始終を聞いていたらしい。
「ねえ、なんて人? 今の女の人」
「ああ、大丈夫だよ。もう関係ないから」
「いいから!」
なぜかむきになって多恵のことを聞いてくる。もしかして妬いているのだろうか。那奈にしては珍しい。気にするなと言っても引き下がらず、あんまりしつこいので、名前だけでも教えてやることにした。
「多恵だよ」
「ふうん」
「それだけかい! なんで聞いたんだ?」
那奈は、なんだか切羽詰まったような、焦った顔をしている。俺が女性と話していたことが気に入らなかったのだろうか。
「絶対、その吉川って女とは関わっちゃだめだよ!」
「わあってるって。俺は那奈一筋だから。安心して」
そう言っている最中に、あることに気づいた。俺は那奈に、多恵の苗字を教えていない。
結局、なぜ那奈が多恵の苗字を知っているのかはなんとなく聞く気になれなかった。人間、知らないほうが良いということもあるのだ。せっかくこれから楽しい同棲生活を送ろうとしているのに、わざわざ水を差すような真似をする必要はない。あまり無駄なことは考えないようにしよう。
その日の夜、初めて俺と那奈は一緒の部屋で寝ることになった。今まで遠慮して俺の方からは言い出せなかったが、那奈の方から言ってくれたので丁度良かった。俺は緊張で全然寝つけなかった。同棲なんてしたことない。それに、那奈とはキスはおろか手を繋いだことさえないのだ。それをいきなり一緒に寝ろなんて、無茶な話だ。ただ、これから同棲生活を長く続けていくためには、やはり慣れていかなくてはならないのもたしかである。
隣で寝ている那奈の顔をそっと覗き込んでみる。俺が横にいるのにも構わず、気持ちよさそうに眠っている。
俺も隣に横になり、那奈の手を握ってみる。那奈は起きない。思い切って、今度は顔を近づけてみる。
「雅人、だめだよ」
寝ぼけているのか、はたまた寝言か、那奈は目を瞑ったまま言った。
「でも俺たち、付き合ってるんだぜ」
「だめだよ、別れがつらくなるから」
「えっ」
那奈の言葉の真意が分からなかった。寝ぼけて言ったのなら気にする必要はないが、しっかり冴えた脳で喋っているとしたら、どういう意味で言ったのか気になる。
「別れがつらくなるって、どういう意味?」
那奈は答えなかった。どうやら寝言だったようだ。ほっとした。那奈とはクリスマスの予定まで立てている。別れるつもりなんて、あるわけないのだ。
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