第16話

 入院して二日目、例の頭の悪い刑事が病室に訪れた。

「具合はどうですか」

「大丈夫です。足の骨折と、あとは顔の怪我だけですから」

「でもひどい怪我で。くれぐれも安静になさってください」

 ありがとうございます、とお礼を言うと、刑事はところで、と切り出した。

「もう田川の脅威もないので、退院されたら警備は外します。好きなところにお住みになってください。吉川多恵さんの警備も外しました。それと」

 刑事は何か悩んでいる様子だった。かなり険しい表情でこちらを見つめている。

「なんですか。何かあったんですか」

「いや、もう終わったことだから言おうかどうか迷ったんですがね、先日あなたから教わった住所に、平沼那奈さんという方は住んでおられませんでした。教えてもらった住所は、空き家でした」

 刑事が帰った後、もやもやが消えなかった。俺は那奈の家に何度も行ったことがある。だから、刑事の言っていることがでたらめだというのはたしかなことだ。それにしても腑に落ちないのは、どうして刑事がそんなでたらめなことを言うのか。本当にちゃんと調べた上で言っていたら、そんな頓珍漢なことは絶対に言わないはずである。どうせ、いい加減に仕事をしているのだろう。あの刑事が無能だったおかげで、俺は何度も病院送りにされた。まったく、腹立たしいやつだ。しかし、しっかり調べ上げた上で、本気でそのようなことを言っているとしたらどうだろう。想像上の彼女、というワードが頭に浮かんだ。情報不足で頭の悪い刑事が口にしたでたらめであることは間違いないのだが、それを那奈に伝えた時の、彼女の反応がいまだに印象に残っている。頭からこびりついて離れない。たしか、田島も妙なことを言っていた気がする。とにかく、退院したら電話で那奈に確認してみることにした。

「雅人! 大丈夫だった?」

 電話での第一声はこれだった。那奈とはしばらく連絡を取っていなかったから、よっぽど心配したのだろう。例の質問をするより、まずは那奈を安心させることが第一だ。

「うん。まだ顔に傷は残ってるけど、とりあえずは歩けるようになった。心配かけてごめんね」

 よかった、と電話越しに一息つくのが聴こえる。安心してもらったところで、本題に切り込もう。

「そういえばさ、那奈の家も警備してもらおうと思って刑事に住所教えたんだけど、住んでないって言われたらしいんだ」

「そう」

「あのさ、こないだ言ってたけど那奈ってもしかして」

「今、実家に帰ってるんだよ!」

 俺の話を遮るように言った。

「親が心配して、犯人が捕まるまで帰ってこいって言うから、アパート引き払って実家に帰ってるんだ」

 想像上の彼女。俺がそこまで言う前に言ってくれてよかった。心の底から安心した。やはり、あの刑事がとてつもなく馬鹿だっただけだったのだ。そして、その刑事に危うく騙されそうになっていた俺はもっと馬鹿だ。那奈が想像上の彼女なはずがない。だって、俺は那奈と出会い、会話を交わし、愛し合っているからだ。

「もう田川も捕まったことだしさ、久しぶりに会おうよ。東京に戻ってくる予定はあるの?」

「そりゃあ、大学もあるし」

「今度はどこに住むの? 引っ越し手伝うよ」

「そのことなんだけどさ」

「なんだ?」

 しばらく沈黙が流れる。また何か衝撃発言が飛び出すのではないかと、ひやひやした。数秒間の沈黙が、本当に怖かった。

「雅人の部屋にいさせてもらえないかなー、なんて。はは! 冗談だよ」

「え、全然いいけど。てか嬉しい。楽しそう」

「え? 本当に? やった! 言ってみるもんだね!」

 なんだ。そんなことか。そういうことは、大歓迎だ。とても嬉しかった。最近、田川のせいで全然会えていなかったからなおさらだ。一緒に住んで何をしようか。その話だけで、夜遅くまで電話を続けてしまった。鼓動が高鳴る。好きな人との、夢の同棲生活だ。先日までとはうって変わって、目の前の世界がぱあっと明るくなったような気がした。

 翌日、那奈は俺のアパートに早速越してきた。那奈の化粧品、バッグ、着替え、お気に入りのうさぎのぬいぐるみが、俺の部屋に交わると、自分の部屋ではないみたいでなんだか新鮮だった。何もなかった所に、綺麗な花がたくさん咲いたみたいだ。

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