第9話

那奈が甲高い悲鳴をあげる。それでも田川は一切動じることなく、一目散に俺の目の前まで来た。そして俺がこれから瞬時にどういう行動に出るべきか考える隙も与えてくれなかった。俺の顔面を殴りつけたのだ。俺は二、三メートルほど吹っ飛ばされ、尻もちをついた。再び那奈は悲鳴をあげる。相変わらず凄まじい馬鹿力だが、おそらくこれでも手加減をしている。なぜなら、先日、病院送りにされた時よりも数段、威力が弱かったからだ。どういうつもりなのか。殺人鬼の考えることなんて知るわけがないし知りたくもないが、不気味なのは田川の顔だ。化け物のような顔をしてこちらの様子を覗き込む田川の顔は、背筋が凍り付くほど気持ちが悪い。先日会った刑事によると、数えきれないほど整形を重ねているらしいが、そのせいで、表情はよく読めない。よく読めないが、きっしっし、という気持ちの悪い笑い声のようなものを、歪んだ唇から漏らしていることから、笑っているのだということがわかる。いまだかつて経験したことのない修羅場に、いままで対峙したことのない怪物。俺の体は恐怖から、震えが止まらない。那奈も俺と同じくらい、いや、それ以上に恐ろしい思いをしているはずだ。さらには、かつての恋人がこんなモンスターになってしまい、心の傷も深いだろう。俺はどうなっても、那奈だけは守り切らないといけない。

「おめえ、死んでなかったんだな。きっしっし。これからいたぶって殺してやるわい」

「やめて!」

 田川には、那奈の声などひとつも届いていない。かつての恋人の声も聞こえないなんて、どうかしている。こいつには、人間の心は残っていないのだ。いったい、どうしたら人間はこんな怪物になってしまうのだろう。今の田川庄次郎は、ただのサディスティック殺戮マシーンだ。

「おら、早く立て」

 左手で俺の髪の毛を掴み、起き上がらせると、今度はさっきよりもうんと強力なパンチを浴びせてきた。一発だけでは終わらず、二発、三発。口の中が切れて、血の味がする。とても顔が痛い。頭がくらくらする。この前のように、また気絶させられるかもしれない。いや、今度は本当に殺されるかもしれない。そう思った時、俺は肝心なことを思い出した。那奈だ。俺が気絶、あるいは殺されでもしたら、この部屋には那奈だけが残る。この怪物は、何をするかわからない。那奈も、殺されてしまうかもしれない。いや、間違いなく殺されるだろう。このままではまずい。

「那奈! 逃げて!」

「なに言ってんだおめえ? 殴られ過ぎて脳みそが壊れてきたみてえだな。きっしっし、きっしっし」

 田川は左手で俺の頭を固定し、右手で、今までよりいっそう力を強めて、俺の顔面をぼかぼかと殴り続ける。まずい。意識が飛ぶ前に那奈のことを逃がさなくては。

「那奈! 逃げろって!」

「そんなことできるわけないでしょ!」

「なんだって」

 那奈、何を言っているんだ。逃げないと殺される。しかし、もう声を出して喋ることもできない。

「おめえ、さっきから何言ってんだ。馬鹿じゃねえのか」

 田川はよくわからないことを楽しそうに話している。あくまでも俺のことしか眼中にないようだ。俺はもう殺される。那奈のことも守り切ることが出来なかった。もう駄目だ。そう思った時だった。

「手を上げろ!」

 勢いよく部屋のドアが開き、一人の警察官が銃を持って入ってきた。救世主が現れた。これで俺たちは間違いなく助かる。気は早いかもしれないが、ほっとした。

「やった!」

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