第5話

された。最悪のタイミングだ。俺は初めての恐ろしい体験によって今、心身ともに弱っているので、こんな手ごわい相手と話せる余裕はない。電話に出るかどうか迷ったが、しつこくかかってくるようになってもまた面倒なので、仕方なく出ることにした。

「なんか用か」

敢えてぶっきらぼうに電話に出たが、彼女はそんなことは全く気にしていないようだった。あくまで自分本位な人間。そんなことはわかっている。

「雅人、私のこと覚えてる?」

「は? まあ、そりゃあね。覚えてるっちゃ覚えてるけど、どうしたの? 何かあったの?」

「覚えててくれたんだ。よかった。嬉しい」

 しばらくの沈黙が流れる。どういうつもりか、意味がわからない。多恵とは、今から四か月ほど前に別れた。しかも付き合った期間も四か月くらいだから、正直いって彼女のことがいまだによく分からない。もっとも、喧嘩別れだから今更彼女のことをよく知りたいとも思わないけれど。唯一わかっていることは、多恵は俺とは性格の面で相性が悪いという、ただそれだけのことだった。

 思えば多恵との間には、良い思い出がない。多恵とはバイト先の居酒屋で知り合った。俺は最初、彼女を異性として見ていなかったが、多恵の方から猛アタックされ、次第に意識するようになり、やがて交際に発展したのだった。が、その後が地獄だった。俺が忙しい時でもお構いなしに毎日三度以上は電話をかけてくるし、出ないと浮気だなんだって、鬱陶しかった。最初のうちは無理してでも電話に出ていたが、一度浮気云々を言われると、なんだか急に息苦しく感じ、それ以降はほとんど電話にも出なくなった。すると多恵からかかってくる電話の頻度は度を越したものになり、俺はスマホの画面に多恵の名前が表示されるだけでストレスを感じるようになった。まさに地獄のような日々だ。ある時、我慢が限界値まで達した俺はきっちりやめてくれと、電話に出て、しっかり話した。すると多恵は逆上し、激しい口論になった。多恵の言い分は、かなり自分勝手なものだった。嫌気がさした俺は多恵にきっぱりと別れを告げ、交際は終わった。思い起こせば多恵との間には少しも良い思い出が残っておらず、後味の悪い交際であったという印象しかない。多恵は俗にいうところのメンヘラというやつだ。それも、度を越したメンヘラだ。世の中にはこういう女性の虜になってしまう男性も一定数いるのかもしれないが、俺には無理だ。

「私たち、元通りにならない?」

 嫌な予感は的中した。ここは、何がなんでもしらばっくれるしかない。絶対に相手にしてはいけない。

「どういうことだよ」

「わかってるでしょ。私、まだ雅人のことが好きなの」

 はっきりと言われると、もう逃げることはできない。しっかり、毅然とした態度で立ち向かわないと、たちまち相手のペースに飲まれてしまう。多恵のペースに乗せられる、それだけは勘弁だ。

「ちょっと、そんな。勘弁してくれ。それに、俺たち、喧嘩別れだろ? 俺のクズ具合を忘れてるだけだって」

「そんなことないよ。私はなんでも覚えてる。雅人との思い出はなんでも」

 もはやここまでいくと、気持ちが悪い。俺の方は多恵に対して碌な思い出なんかないというのに、いったいむこうはどんな良い思い出を持っているのだろうか。記憶を美化するのはやめてほしいものだ。

「だけど、ごめん。今、俺色々あってさ。それどころじゃないんだ」

「そう。わかった」

唐突に電話は切れた。意外に聞き分けが良い。流石に、自分の言っているこのおかしさに気づいてくれたのだろうか。そして丁度そのタイミングを見計らったかのように、刑事が俺のもとにやってきた。スキンヘッドで体格のいい、強面の、漫画で出てくるような、絵に描いたような刑事だった。雰囲気が怖く、人を寄せ付けないオーラを放っている、と感じる。

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