第3話

「え? 誰が」

 そう言いかけてはっとし、息をのんだ。まさかとは思いつつ、恐る恐る訪ねてみた。

「も、もしかして、脱走犯? 今ニュースで話題になってる」

 那奈は静かに頷いた。鼓動が高鳴る。当たり前だが、にわかには信じ難い。

「冗談だろ?」

冗談であってほしいという願望も込め、俺は無理矢理にでも笑顔を作っていった。視線は泳いでいたと思う。那奈は表情ひとつ変えずに首を横に振る。現実的な話ではないが、とても嘘を言っているようには見えない。そうか。だから那奈はネットニュースをあれだけ怖がり、昨日の映画も苦手なのだ。

記憶を辿る。田川庄次郎という男は、どんな男であったか。ネットニュースに書いてあった記事を思い出すと、とても恐ろしくなってきた。田川は、元交際相手の新しい恋人を家族ごと殺し、死刑判決を受けていた男だったからだ。田川庄次郎がもし捕まらなかったら、那奈と付き合っている俺が狙われる可能性もあるということだ。全身が硬直し、手足が震え、額に冷や汗が浮かび上がってくる。他人事だと思っていた例のニュースが、一気に脅威に感じ始めた。他人事が、他人事ではなくなったのだ。那奈に焦りを悟られないよう、なんとか自分を落ち着かせようと努力した。俺が怖がっていても仕方ない。俺は那奈を守る。そう約束したのだ。深呼吸、深呼吸。そして、ようやく冷静になり、那奈にかける言葉が見つけることができた。

「そうだったんだ。そ、それはびっくりした。本当に。信じられないけど、嘘言うわけないもんね。たしかに危険だね。でも那奈、それを気にしてたの? たしかにつらい過去かもしれないけど、家にこもってたって仕方ないよ。なんかあったら俺が絶対守るからさ。ていうか、今九州にいるんだよ? 警察が捕まえてくれるよ」

「違う! あいつは雅人が考えてるよりももっと恐ろしいやつなんだよ! 彼氏の家に火をつけたんだ! それでもなかなか捕まらなかった! だからその時家にいなかった妹さんも、隠れてたのに探し出されて殺されたの!」

 凄い勢いで捲し立てる。こんな那奈は見たことがない。よっぽどつらかったのだろう。怖かったのだろう。那奈は突然大声をあげて泣きじゃくり、やがて過呼吸に陥った。これはただごとではない。那奈の様子から、那奈が話したことは本当だと信じることができた。かなり衝撃的で、非現実的な、本当の話。話を詳しく聞きたい気持ちもあったが、多分、那奈は話したくないだろう。踏み込むべきではない。とりあえず俺は那奈の手を強く握り背中をさすってやった。落ち着くまで三十分以上はかかったが、渡したハンカチで顔を拭うと、那奈の涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった顔は元通りになった。綺麗な、いつもの那奈だ。しかし、まだ少しだけ呼吸が荒い。

「大丈夫。つらかったら、家から出なくてもいい。何も話さなくていい。毎日でも俺が来る」

「雅人」

 那奈はようやく笑顔を取り戻した。控えめな笑顔だった。この日は遅くまで那奈の家で過ごした。一緒に映画を観たり、テレビゲームをしたりした。俺が帰るころには、那奈は完全に元気を取り戻したようだった。

「大丈夫? 気をつけて帰ってね」

「なに、大丈夫だよ。それより戸締りには気をつけなよ」

 一応ね、と付け加えると、彼女は頷いた。もう夜の十時半を過ぎていたので、最寄りの駅から家に帰る途中の道すがら、ほとんど人はいなかった。真っ暗で寂しい夜道。この世界から俺以外の人間が姿を消してしまったのかと思うほど、孤独な世界だった。できるだけ自分の存在を消そうとしても、自分の足音がこと、こと、と大きな音を立てる。周りが静かすぎるからだ。それがなんとなく薄気味悪かったので、小走りで帰った。自分のアパートに着いた時には少しほっとした。やがて自分の部屋の前までたどり着き、鍵を取り出そうとズボンのポケットに手を入れた瞬間、がん、という衝撃とともに後頭部を激しい痛みが襲った。すぐに、何者かに殴られたのだと思った。振り向くと、そこには細身ながらがっちりした体の男が薄ら笑いを浮かべて立っている。すぐに脳裏をよぎったのは、脱走犯のことだ。

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