新10話 謁見と婚姻書への署名

「王太后。ご紹介いたします。彼女が我が正妃になる、バーナード辺境伯令嬢、リラ・バーナードです」


 婚姻書への署名と、王太后との謁見は、迎賓用の宮殿で執り行われた。そこはただただ広く、絢爛豪華だった。通された謁見の間の奥には、この国でいま一番権力がある王太后、ローズ・オースティンが鎮座していた。


 赤い絨毯の上でリラは、ルーカスの横でなれないカーテシーをする。


「ようこそ。バーナード辺境伯令嬢。顔を上げよ」

 声をかけられてから、ゆっくりと姿勢を戻した。


 ローズ王太后は、隣国の王族の証である、赤ワインのような濃い赤髪に、赤い瞳をしている。肌には張りがあり二十代のように若々しい。四十歳を超えているとは思えない美貌の持ち主だった。


「王子が結婚とは、めでたい。ルーカスの戴冠式が無事に行えたら、盛大に式を挙げましょうね」

 

 王太后は、にこりとほほえんだ。

 ――戴冠式が無事に行えたら、か。

 笑顔で感情を隠す彼女からは、本心がわからない。リラは王太后をうたがっているため、些細な言葉でも過敏に反応してしまう。


 謁見の間には、彼女の取り巻きの貴族が十四人、ずらりと並んでいた。しかし、息子の第二王子はいない。


 ルーカス側は、リラとワイアット、そしてルーカスの側近、文官で侯爵子息のナタン・シェーバーだけだった。数ではとても頼りない布陣だが、

「王太后。お心遣い、まことにありがとうございます」

 ルーカスは堂々としていた。


「殿下。さっそくですが、婚姻証明書にサインをお願いします」

 リラとルーカスの前に進み出たのは、宰相のサイモン・ノヴァックだった。彼は先帝、リヒャード王の右腕の存在だったが、この数年は王太后とともに、国の維持に尽力していた。

 ルーカスが書類に目を通し、ペンを走らせる。その次にリラもサインした。


 神に誓う式をするでもなく、列席者も少ない形ばかりの婚姻は、書類に署名するだけですぐに終わった。


「バーナード辺境伯は、今日発たれるとか」

 ローズ王太后はワイアットに話しかけた。

「は。我が領地は隣国と接しております。長く留守にするわけにはいきませんので」

「辺境伯のおかげで我がオースティン国は脅威なく、平和です。苦労かけますが引き続き、国境警備を頼みます」

「御意」

 ワイアットは王太后が退席するまで、騎士の礼を捧げ続けた。


 *


 謁見のあと、リラとルーカスは城門まで、ワイアットを見送りに行った。

 ――クレマチスの蔓が、ここにまで伸びている。


 高い城壁に緑色の葉が這っているのを見て、リラの胸に鈍い痛みが走った。


 王太后はルーカスを呪った相手かもしれないが、公式の場で対面しただけでは、なにもわからなかった。


 ――王太后、平然としていた。元々、バーナード家は王太子派。今さら王太子と婚姻関係になったところで、王太后は痛くも痒くもない、ということか。


 自分の無力さに苛まれ、自然と眉間に力が入る。


「リラ、私はこの足で領地へ戻る」

「あ、うん。父さん、気をつけて」


 父に話しかけられて、リラは思考の渦から戻った。

 

「母さんや、領民のみんなによろしく伝えてね」

「わかった」


 ここには一緒に来た。

 聖騎士として一緒に帰るつもりだった。父を一人で帰らせる。大切な人たちにあいさつもできていないと思うと、急にさみしくなった。


「リラ」

 いきなり、ルーカスがリラの手を取った。驚いたが、父の手前、動かないでいる。


「情勢が落ちついたら、バーナード辺境伯邸へきちんとあいさつに行こう」

 

 リラの気持ちをくみ取るように、ルーカスはほほえみながら言った。


「はい」と頷いてから、リラは笑った。


 王になれば多忙を極める。

 それでもいつか、二人が出会ったイチイの大木へ行きたい。


「殿下。どうぞ、……健やかに。お元気で」


 ルーカスが蔓の呪いにかけられていることはごく一部の者だけが知っている内緒事だ。

 ワイアットの含みを込めたあいさつにルーカスは力強く頷きを返した。


 騎馬に乗ったワイアットが、騎士団員たちと一緒に颯爽と去っていく。リラは遠く小さくなっていく父の背を、見えなくなるまで、見送り続けた。


 *


 数時間後、日はすっかり暮れ、月が夜空を照らしはじめた。破れたドレスを見たマデリンは、力なくその場に崩れ折れた。


 ドレスの破れを報告する前にルーカスが「叱るなら、リラではなく私を」と言ってくれたおかげで、怒られなかったが、しくしくと泣く彼女を見ていると、胸が痛い。


「マデリン、本当に、すまなかった。せっかく褒めてくれたのに。ドレスは、また破る可能性があるから、公式行事の時だけにしてくれると助かります」

「ええ、そうですね。理解しました……なのでリラさま。私なんか侍女に、謝らなくて、けっこうですわ」

 マデリンは、大粒の涙を指先で拭いながら朗らかに笑った。

「そうはいかない。悪いと思ったら、王妃だろうが、王だろうが謝るべきだ」


 リラの言葉にマデリンは目を丸めた。


「リラさまは、本当に騎士のように強くてやさしいんですね。昼間のドレスは、諦めます。ですが、ナイトドレスはしっかり着込んでいただきますよ! 部屋の外に行って破ってくることもそうないでしょう」

「そ、そうだね。わかった」


 謝罪のあと湯浴みを済ませたリラは、マデリンが用意した寝間着におとなしく袖を通した。


 ――なにこれ。昼間のドレスより生地が薄くて、少し透けている。世の令嬢は、いつもこんな風邪をひきそうな服を着て寝ているのか?……知らなかった。


「リラさま。とてもお似合いで、かわいらしいです!」

 リラのナイトドレスを見たマデリンはご満悦顔だ。一方のリラは恥ずかしくて死にそうだった。


「マデリン。わたしは身体を鍛えているが、実は腹が弱い。できればあと一枚、上に着込んではだめかな? 残暑が厳しいといっても、ドレスの生地は薄いし、腹が丸見えでは風邪をひきそうだ」


「そうですね、身体を冷やすのはよろしくありませんね。明日以降はもう少し厚手のドレスを用意いたしましょう。ですが、今日はこの格好でがまんして下さい」

 

「がまんか……わかった」

 

 衣装のことで、また、マデリンを泣かせたくはない。一晩くらいならがまんしようとリラは思った。

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