第8話 月の下で
バロンがここに来て数か月たった。彼はすっかりこの村に慣れてしまい、もう立派な村人の一員となっていた。ペストたちが以前敵だったことを彼は忘れていた。
彼はまたペストについて新しいことを知った。ペストの魔力は永遠には続かないということ。ウリからそれを聞かされたとき、バロンは驚愕した。
「なんだ、知らなかったのか」
ウリは軽く笑った。
「なぜかはわからないが、我々の能力は20代後半から30代前半にかけて消えていくのだ」
「普通の人間に……戻るっていうことですか?」
「その通りだ。だからこそ、我々はいつかペストと人間がお互いの手を取ることを信じているのだ」
ウリは手を固く握って語った。自分の妻が殺されているのにここまで言える彼を、バロンは尊敬した。
ある日、イデリーナから自分の作る芸術作品を見てほしいと言われたバロンは、彼女に連れられて、この山の中の空間の隅っこにやってきた。
「せえの!」
そこでイデリーナが手を思いっきりおしやると、氷がみるみる形を作り、波打つ海とその上に浮かぶ月の像ができた。
「すごい!」
バロンは素直に驚いて、目を見張る。ペストの能力とはこんなに美しいものまで作れるのか、と彼は感嘆した。
「んふふ、喜んでもらえてよかった」
イデリーナは微笑んだ。
「ああ、本当に綺麗だよ。久しぶりに月をおがんだような気分だ」
そこでイデリーナははっとし、ふと表情を暗くする。バロンはそれに気が付かなかい様子であった。
「ずっと外出ていないからな。能力がないとあそこまで行くなんて難しいし……」
「……確かに、そうね。じゃあ、少し外出てみる?」
いきなり言われて、バロンは慌てた。
「出るって……駄目に決まってるだろ! 他の人から怒られるぞ……」
「大丈夫よ、なにか言われたら私のせいにすればいいから。行きましょ!」
イデリーナは上着を脱いだ。その下の服は背中が開いていた。思わずバロンが目をそむける。その間に背中の皮膚が伸び、それが「羽」を形成した。
ペスト最大の特徴である二枚のそれは大きく、とても美しかった。トンボの羽のような形をしていたが、光に照らされるたびに様々な色にきらきらと輝いた。
「お、おい、やめろ!」
いきなり俗にいうお姫様抱っこをされたバロンは恥ずかしくなって怒鳴った。
「そんなに慌てないの。大丈夫だから安心してね。行くよっ!」
羽がばたばたと高速で動き始めたかと思えば、バロンと少女の体はそのまま上昇した。バロンは怖くなってしがみついた。羽の音はちょうど虫が飛ぶときの音と一緒だった。
上についたイデリーナは岩の扉をすっと開け、二人は外へ出た。そのまま下のほうへ行き、着地する。
「はぁー、新鮮な空気だ……」
バロンは思わず深呼吸をした。集落は風の能力を持ったペストがかなりの頻度で空気の入れ替えをしているが、やはり外にはかなわない。
月は空を明るく照らしていた。偶然、満月だった。
「綺麗……」
イデリーナとバロンは二人して空を見上げる。周りに明かりがないので、星もよく見えた。
山のふもとを見ると、小さな町や村が煌々と輝いている。バロンはふと自分の農村が懐かしくなり、目を細めた。イデリーナはまたそれに気が付き、とある決心をした。彼女は恐る恐る彼の名を呼ぶ。
「ねぇ、バロン……」
「ん?」
「私、あなたを人間界に返してあげるわ」
「え」
バロンは当惑して、イデリーナの顔を見た。
「どうしたんだ、急に」
「だってここにもう数か月いるけど、もともとはあなた誘拐されてきたんだし……やっぱりこんな集落なんてバロンの家じゃないでしょ。バロンの居場所は人間界にあるのよ」
「なんでそんなこと言うんだ? オレはここでいい。……もうここで暮らすことにしたんだ」
バロンは小さく答えた。イデリーナは目を伏せて、首を振る。
「……ダメよ、ちゃんと自分の仲間のところに帰らなきゃ。ペストがいない生活にまた……今まで振り回し続けたけれど、もうあなたは自由になるべきなのよ」
「イデリーナ」
「ごめんなさいね、監禁しちゃって。お父さんには私が言っておくから、だから……」
「イデリーナ!」
「なによ!!」
「どうして君は泣いているんだ?」
「え?」
本当だった。生ぬるい涙が頬を伝っていた。イデリーナは自分自身に困惑した。
「言っておくが、『オレ自身』はこの村から出たくないと思っている。オレはもうペストを恐れていない。ここにきて初めてペストというものを知って、オレの憎しみは消えた。だが……」
バロンは、イデリーナの肩を掴んで、まっすぐ彼女の鮮やかな緑色の目を見つめた。それは月の光の影響で、ときたまさらに明るい色に変化した。
「君がオレに出て行ってほしいなら、オレは出るぞ。ケレンの言う通り、オレはただの敵だからな」
イデリーナは首を激しく横に振った。
「まさか……嫌よ。本当は……出て行ってほしくない!」
「じゃあなんでさっきあんなに出ていくことを提案したんだ?」
「あなたに幸せになってほしかったから……」
「オレの幸せ? オレはここにいて十分幸せだぞ。なんで君はオレのことをそんなに気にするんだ?」
「だって……」
顔に血が昇るのを感じた。だけれど、今言わないといけないような気がしたのだ。
「あなたが好きだから……」
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