2-4
翌日、私は非番で休みだった。
アレク様も私に合わせて休みをとったようで、白いシャツと黒いスラックスというラフな格好をしている。首元に簡素なタイもしていない。
だいたい非番の日はこんな服装だから、彼は
私はというと、休日は自作の服かライラさんの工房で買った服を着ている。従業員は割引で服を
(今日は縫い物のことは忘れて、回復魔法の練習に集中しよう)
そんなことを考えながら食後のお茶を飲んでいると、アレク様が私を気遣わしげに見ている。
「昨日、教会で何かあった? 昨夜から元気がないような気がするけど」
「……あったような、なかったような……。ちょっと説明しにくいです」
昨日はとてもいい出来事もあったけど、終業の頃には少し落ち込んでいた。でも落ち込む原因は自分にあるから、話しても意味がないような気もする。
(どこまで話したらいいかな……。アレク様が心配してたことだけでいいかな?)
私は迷った挙句、スカートのデザイン変更とルシャーナ嬢が私に会いに来た話を伝えることにした。
「……ということで、アレク様がせっかく忠告してくれたのに、それを活用できませんでした。すみません。でも元気がなかったのは別件なんです」
「本当か? 実はルシャーナのせいで元気がなかったんじゃないのか?」
いつもの
「いえっ、ルシャーナ嬢は全然関係ありません! 個人的な理由です!」
ルシャーナ嬢が引き金になったのは確かだけど、私のせいで二大公爵家の間に
アレク様は何かを考え込み、やがて顔を上げた。
「念のため、『
「いいですけど……」
(聞いたことない単語だったわ。神聖魔法の何かかな?)
差し出された手を取って廊下を進む。
同居してからというもの、アレク様はちゃんと
(あの時のアレク様は、私が聖女になるって言ったせいで混乱状態だったんだわ。それで変な言動になっちゃったのね)
「この部屋を使おう」
一階の
(でも中身は傘じゃない……よね? 丸まった絨毯みたいなのが、何本か
アレク様は私にちょっと待つように言い、箱からそれを一つ引っ張り出した。床に置いて広げていくうちに、中身の模様が見えてくる。
「わぁ……! これ、
アレク様が床に広げたのは魔法陣だった。授業で使う教本に何個か
(か、カッコいい。魔法陣ってなんかカッコいい!)
脳内の呟きがクリス化している。これでは弟に「興奮しすぎよ」なんて偉そうに言えないけど、実物を前にして私の興奮は最高潮に達した。アレク様はまた箱の方に行って、今度は|剣《
けん》を手に戻ってくる。そこでやっと私は一つの疑問を覚えた。
「あれ? でも聖騎士って、神聖魔法は使えないんじゃなかったですか?」
クラリーネ様の説明ではそう聞いたし、実際に巡回には神官か聖女が同行する。この魔法陣は使えないのではないだろうか?
私の疑問に、アレク様は剣を
「正確に言うと、聖騎士は魔法陣を介してじゃないと神聖魔法を使えないんだ。俺たちは神聖力を体や剣に流すのは得意だけど、外に向かって放つことはできない。魔法陣の
《てん》という部分に剣を
「へぇ~! 初めて知りました」
教本の魔法陣は参考ぐらいの
ただ、神聖力がどこかで途切れないように、一本の繫がった線で
(自分で魔法陣を作っちゃうなんてすごいなぁ。きっと何年も勉強したんだろうな……。アレク様って努力家なのね)
ワクワクしながら魔法陣の外で待っていると、彼は中心にある霊点に剣を突き立てて私に手招きしている。
「? 私もそこに立つんですか?」
「うん。これは二人で使う魔法陣なんだ。今から使う神聖魔法は『互換』といって、相手と神聖力を共有する効果がある」
「共有……二人のお給金を一つの
「……そうだな、きみにはそれが分かりやすいかもな。『互換』すると使える神聖力が二人分になるんだ。よほどのことがない限り、神聖力が切れることはないと思うよ。あとは―― 例えばヴィヴィがどこかで迷子になったりした時に、位置を探し当てることもできる。……でも」
アレク様はそこで言葉を切り、私と視線を合わせた。
「でも?」
「きみがどうしても嫌と言うなら、やめておくよ」
「嫌じゃありません。今の説明でちゃんと
お互いにメリットがあると分かったし、私はとにかく今すぐにでも魔法陣が起動するところを見たかったのだ。
しかし
「…………へぇ。ずい分俺を信用してくれるようになったんだな……」
(え? 笑っ……た?)
アレク様が横を向いたので、私が立つ位置からは彼の顔がよく見えなかった。でも少し――ほんの少し見えた横顔が、腹黒そうな
(まさかね、気のせいでしょ。ここまでよくしてくれる人を悪く言ったら駄目だわ)
かぶりを振って頭から疑念を追い出す。剣を支えていたアレク様が私に指示を出した。
「剣の
「はい、……!?」
言われた通りにすると、武骨で大きな手が私の手の上から柄を握る。
(うっ、これは……またあの
心臓がドキドキしてきた。なぜか胸が苦しくなり、精神を落ち着けるために深呼吸する。
(落ち着け、心臓落ち着け!)
しかしさらなる悲劇が私を待っていた。
「少しだけ
「っ、えっ!?」
アレク様の
(なっ何するの!? まさかキスとかじゃないよね!?)
顔が燃えそうなほど熱くなって、目をぎゅっと閉じる。息までとめていると、おでこにコツンと何かがぶつかった。
(…………お、おでこを合わせただけ!? それでもドキドキするけど……私は何を……)
ひとりで勝手に勘違いして、アワアワしてた自分が
「《相対する
ほとんど聞き取れなかったけど、耳に
アレク様が額を
「終わったよ」
「は……、ひっ」
目を開けたら予想以上に彼の顔が近くて、
私の様子にアレク様は
「ひっ、てひどいな。そんなに嫌だった?」
「ち、違うんです。最近なんか体がおかしくて……。心臓が勝手にドキドキするし、息も苦しくなるんです。でも休んでたら治りますから」
「…………ふぅん」
(あれ? 思ってたのと反応が違う)
てっきり「医者を呼ぼうか」なんて大げさなことを言うだろうと思ってたのに、アレク様は微笑みながら私を見ているだけだ。
でもその笑顔が、
(――って、そんなわけないわ。私が病気になってアレク様が満足するなんて、どう考えてもあり得ないわよ。目までおかしくなったのかな)
私は目をこすりながら立ち上がって、よろよろとソファに向かった。その間にアレク様は一度廊下に出ていたけど、戻ってきた時には水の入ったグラスを手に持っている。
「水を飲むと落ち着くんじゃないか?」
「あ、ありがとうございます」
受け取って飲んでいると確かに落ち着いてきた。アレク様は一人分の
「……アレク様はすごいですね」
「ん? どうしたの急に」
自分でも何を言い出すのかと
「聖騎士として魔物を
生まれた瞬間から聖職者だったアレク様と私を比べるのは間違っている。彼は何年も努力を続けたからこそ博識になり、今の地位を
(それは分かってるんだけど……。私はとちってばかりで、簡単な回復魔法も使えてない)
緊張のせいか、気合が入りすぎているせいか、私は詠唱を間違えてばかりだった。
しかも間違えるたびに「また失敗するかも」と考えてしまい、負の
「もしかして、回復魔法のことで
何かを察したアレク様が、魔法陣を
「……はい。まだ一度も成功してないんです。誰かの
「じゃあ俺が手伝ってあげるよ」
場違いなくらい明るい声だった。
「…………はい?」
彼はぽかんとする私に構うことなくソファから立ち上がり、魔法陣の方へ歩いていく。
そして床に置かれた剣を拾ったかと思うと、
「この傷を治してみて」
なんのためらいもなく剣で手の平を切ってしまった。
「なっ、何して……!?」
何考えてるんですか、と
(とにかく今は傷を治さないと……! あれぐらいなら、一番軽いのでいけるはず!)
基本の回復魔法は軽傷から重傷まで三種類ある。でも今回の傷なら、軽傷用の呪文がちょうどいいはずだ。私はアレク様の元に
「《聖なる御手の施しを受けよ!》」
私の手から白い光が
「……あれ? できちゃった……」
練習の時は何度やっても駄目だったのに、あっけなく成功してしまった。あの苦労はなんだったのか。
「やっぱりな、ヴィヴィは本番に強いタイプなんだよ。成功すると思ってた」
ニコニコと笑っている。自分は何も悪いことはしてません、という
「……成功すると思ってた、じゃないでしょ!!」
広い部屋に私の
「こんなことして、私が喜ぶとでも思いましたか!? 確かに成功はしましたけど、だからって魔法の練習のためにわざと傷を作られても、全然嬉しくないです!」
「でも怪我はちゃんと治せただろ。俺は今の過程は必要だったと思うけどな」
小首を傾げている。まるで何も分かってない子どもみたいだ。
「……っ、あのね、治せると分かってる傷でも、切ったら痛いでしょ!?」
「痛いよ。でも俺は仕事柄、痛みには慣れてるからな。これぐらいは平気だ」
(だ、駄目だわ。
あまりにも言葉が通じなくて、
「……私、自分を大切にしない人は好きになれません」
瞬間、アレク様の顔から朗らかな笑顔が消えた。すごく整った顔のせいで、無表情だと氷の
「好きになるなら、同じ価値観の人がいいです。自分も相手も大切にできる人じゃないと、……っ!?」
なんでそこで視線を戻してしまったんだろう。見なければよかったのに、アレク様がずっと無言だから気になってしまったのだ。
私の視線の先で、彼はこれ以上ないくらい嬉しそうに笑っていた。どう見ても
「な、なんで……そんな、嬉しそうに……」
「嬉しいに決まってるだろ。だってさ……きみは最初、俺のことを金づるぐらいにしか思ってなかった」
ひゅっ、と息を吞む音。それが自分の喉から出た音だと気づくまでに、数秒かかった。
(きっ、気がついて、たのっ……!?)
心臓がバクバクと激しく
「まっ、まさか……公爵様を相手に、そんな失礼なこと……」
「そうそう、公爵という地位が功を奏したんだ。俺はヴィヴィに出会うまで、爵位なんかどうでもいいとさえ思ってたんだよ。でも俺が公爵で、しかも金を持っていたからこそ、きみは取り引きに応じてくれたんだよな?」
「…………」
もう駄目だ。何を言っても誤魔化せそうにない。
「最初はただの金づるだったのに今では俺の体を心配して本気で怒ってくれるし、わざと傷を作ったら嫌いになりますよ、なんて
うっとりしながら話していたアレク様は、
(ううっ、また!?)
かっと火がついたように顔が熱くなり、反射的に目を閉じる。
(な、何がおかしいのよぉ……!)
視線の先では予想通り、アレク様が『素』の顔でニヤッと笑っていた。
(
「『互換』の時も今みたいに、ヴィヴィの顔が真っ赤だったんだ。異性として意識してもらえるなんて最高に嬉しいな。でもきみは同じ価値観の男がいいみたいだから、わざと怪我をするのはもうやめておくよ」
価値観を合わせるためにやめるって、何かがズレている。でもそれを
「……い……異性……?」
(それは―― 私がアレク様を、男性として意識してるってこと?)
「……意外なことを言われた、って顔だな。そうか……。自分でも気がついてなかったんだな」
「ちょっ、待って! 勝手にひとのこと
顎にかけられた親指が、そっと私の
「……っ、うぅ……」
「……ごめん。嬉しくて調子に乗りすぎてしまった。疲れただろう、部屋まで送るよ」
息苦しさに目が
(私……この人を意識してる? だから胸が苦しくなるの? よく分からない……)
今までの私の人生は、クリスが中心だった。弟を育てるために『母』になり、恋愛なんて二の次だったから、自分に何が起こっているのかなんて分かるわけがないのだ。
「ゆっくり休んでて。食事の時間になったら、また迎えに来るよ」
アレク様は
「……迎えに来る? うっかり寝ちゃったら、寝顔を見られるってこと?」
(あっ! こんな風に考えるなんて意識してる……の? わ、分からないっ……!)
自分がドツボにはまっている自覚もなく、しばらく私は悩み続けた。
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