なにがあるかわからない―神戸牛ー 第九話
週の中日に、会社のみんなで居酒屋へ飲みに行った。
彼岸食堂のことを知っている人がいて、その話で盛り上がった。
前に噂をしていた人だ。どうやらその人の知り合いが、死者と会ったらしい。
忠一はその話を、ただ黙って聞いていた。
こうして口コミで、彼岸食堂の話はこれからどんどん広まっていくのかもしれない。
彼岸は一年に二度ある。春彼岸と秋彼岸。春も行われるのだろうかと思った。
飲みに来た人の中では、親が亡くなった人もいて、会えないだろうかと呟いていた。
強い後悔や、重い念がなければ会えない。伝えたかったが、まさか自分が彼岸食堂へ行って、かつて過労死させた青年と会ってきたとは言えなかった。
プライベートの話になる。
「黒島さん、ご趣味はあるんですか」
若い女性の一人が訊ねる。
「趣味はないです。でも最近自炊するようになりまして」
「自炊ですか。すごいじゃないですか」
「大したものはまだ作れませんよ」
「奥様いらっしゃるんですか」
「五年前に離婚しました。でも娘から電話がかかってきて、今度結婚するようです」
結婚、という話に独身の若者たちはまた盛り上がる。結婚してもいいことばかりではないが、若い人たちにとって、やはりそれが一つの人生の目標でもあるのだろう。
あとは忠一の仕事ぶりを評価された。丁寧だし速い、と。
「でも黒島さん、仕事に没頭しすぎて声かけても気づかないんですよ」
「それは申し訳ない」
仕事に全集中してしまう癖は今でも抜けない。
言われた通りのことはきちんとこなし、時間が余ったらそれ以外のこともやる。
ただ本当にフルに集中力を発揮するので、他人の声が聞こえなくなる欠点があった。
それでも少しは、気を配れるようになったと思っていたのだが。
「もう少し周りを気にするようにしますよ」
そのあとも、様々な話をして、何人かの社員と個人的なLINEを交換することになった。酔いが心地よい。久々に酒を飲んだし、初めて会社の人との絆も深まったような気がする。
帰ると、風呂に入り気分よく歌を歌った。
気持ちは解き放たれていた。だが、罪は消えない。
土曜になると気が重くなった。康子は一体何を話すつもりだろう。
一応スーツを着て、指定された喫茶店に行く。すると康子がいて、手を挙げた。
久しぶりに見る康子は、少し年齢を感じさせた。
「待ったか」
「五分くらい」
忠一は腰を掛けると、二人でホットコーヒーを注文した。
「由里の彼氏は、康子に挨拶したのか」
「いいえ。まだ」
「そうか。それでも結婚を許すんだな」
「あの子が決めたことだもの。幸せそうにしているし、私が口を挟む理由もないわ」
「そうだな……」
コーヒーが運ばれてくる。忠一はブラックで飲むことにした。康子は砂糖にミルクを入れている。
「あなたは今どんな生活を送っているの」
「いい会社に就職できて、仕事は順風満帆。プライベートも確保されているから自炊もしている。給料は昔より減ったけどな」
「そう。少し変わったわよね」
「わかるか?」
「顔つきが前より優しくなっている」
康子は微笑んだ。
「俺もこの年で未だ人生というものを勉強させてもらっている。それで、話ってなんだ」
「そのことなんだけど」
康子は一度うつむき、言い辛そうにしていた。
「どうした。なんでも言ってくれ」
「その。また、戻れないかしら。あなたと」
一瞬思考が停止した。なにを言っているのかよくわからなかった。
「今、なんて……」
訊ねようとすると、康子はぱっと顔をあげた。
「だから、また結婚して一緒に住めないかっていう話」
心底驚いた。この俺とよりを戻したい?
「俺だぞ?」
「ええ。あなたはいつも私が寝た後家に帰ってきていたし、家でも威張っていたし、一人の青年を死なせてしまった。それで一度愛想が尽きた。でも娘が結婚したら、私たちお互い独り身でばらばらに住むのよ。孫だってできるかもしれない。それなら一緒に、その孫の世話をしたいなって思って。あなたも変わったみたいだし、今なら若いころのようにうまくやれるかなって」
「一人は寂しい、か」
「ええ」
忠一は笑った。康子の申し出に、嬉しさが込み上げてきた。このまま自分は一生一人で、罰を受けながら生きていくのだと思っていた。
「俺も寂しいと思っていたところだ。あの家に独りでいて、寂しくて仕方がなかった。どうしてお前や由里を大切にしなかったのだろうって、ずっと後悔していた」
彼岸食堂のことも話した。貴弘からは許しをもらっていることも話す。
「あの事件以来、俺も変わった。また、一緒にやり直そうか」
「私もあなたの罪を一緒に背負っていいかしら」
思わず泣きそうになった。
「ありがとう……俺は多分、天国には行けないよ」
康子は、今度は明るく笑う。
「いいわ。でも生きている間は、共に。由里の彼氏には二人で会いましょう」
「ああ……」
貴弘の言ったとおり、人生、本当になにがあるかわからない。
まさかすべてを失ったと思ったのにまだ得るものがあったとは。
もう十月だ。店に入る日差しは柔らかいものに変わっていた。
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