なにがあるかわからない―神戸牛ー 第八話
淡々と日々を過ごしていた。
昼間は会社に行く。気配りできる人の多い会社だから、忠一も他の社員に、少しずつ気を配れるようになった。ここには罵声を吐く人はいない。
忠一の悪口を言う人も、今はもう誰もいない。
「黒島さん」
年下の上司に、声をかけられた。
「はい」
「仕事、丁寧ですね。今度みんなで飲みにでも行きませんか。私は黒島さんのこと、まだあまり知らないもので」
初めて飲みに誘われた。それが少し、嬉しかった。そういえば前の会社では飲みに行くことなどなかった。そのような暇さえなかった。
「ええ。ぜひ行きましょう」
今はもう、前の会社とは異なる。貴弘の言った通り、コミュニケーションをとろう。
「じゃあ、店や人数が決まり次第、連絡しますね」
「お願いします」
午後六時に仕事を終えてタイムカードを切ると、スーパーへ寄った。ここのところ、毎日自炊をしている。まだ手の込んだ物は作れないが慣れると楽だ。スーパーを見て回るのも楽しい。
今日は炒めうどんにしよう。冷凍されたうどんを手に取る。それから具材となる野菜もかごに入れる。
帰るとすぐにキッチンへ向かった。炒めうどんの味付けは塩胡椒に、醤油を少し垂らすと旨い、とレシピサイトに書かれている。
湯気が立ちのぼる中、皿に入れ、一口食べようとして――鞄からスマホが鳴り響いた。
もう何年も、誰からも連絡など来なかったのに。仕事関係からだろうか。スマホを取り出し、スワイプする。
「はい」
「あの……私だけど」
懐かしい声が響いた。元妻の声だ。
「康子、か」
「ええ。そう」
「どうした」
自然と声が優しくなる。
今の忠一はすっかり毒気が抜かれて、以前よりも丸くなっていることも事実だ。
「由里が……」
「由里がどうした」
電話の向こうで娘の声が聞こえた。なにか話し合っている。そうして、康子から由里に電話の声が変わった。
「もしもし、お父さん?」
お父さん、と呼ばれるのも五年ぶりだろうか。声も少し大人になっているか?
「ああ、元気にしているか。どうした、急に」
「元気だよ。あのね、私結婚する」
「え」
え。え? 娘が結婚だと? 内心で動揺した。
「まだ二十三だろう。早くないか」
昔は二十三くらいで結婚する男女も多くいたが、今では晩婚化が進み、逆に若くして結婚するのが珍しくなりつつある時代だ。
「とても誠実な人で。お父さんにもどうしても伝えたくて」
「そうか。相手の特徴を具体的に教えてくれ」
いくら離婚しても、娘は娘だ。そして、由里の父親は忠一だけなのだ。
「職場で知り合ったんだけど、二歳年上。性格は明るくて、いろいろ気を遣ってくれて、すごく優しいの」
「お前を大切にしてくれる人ならお父さんは何も言わない」
「ううん、今度お父さんにも挨拶しに行きたいって。彼が言ってた」
「いいのか? お前、俺のこと嫌いじゃないのか。ずっと離れて暮らしていたのに」
「そりゃ高校生の時は嫌いだったよ。事件起こしたし。でも私も大人になって、お父さんへの認識を改めたんだよ。ただ一生懸命働いていた不器用な人だったんだなって。そりゃ人を一人死なせてしまって許せない部分もまだあるけど、お父さんだし。今まで会おうとしなくてごめんね。短大卒業してからは仕事が忙しくて、慣れるのに必死で。お父さんもこんな風に働いていたのかって思ったら、あまり嫌いじゃなくなった」
娘は娘で、自分の人生を必死に生きていたのだろう。結婚は素直に喜ばしいことだった。
「おめでとう、と一応言っておく」
「ありがとう。お父さん、今はいつが休み? それともまだ休みなく働いているの」
「暦通りだ。土日祝日は休みだし、休日は基本的に暇を持て余している」
「そう。少し変わったんだね」
「ああ。今はいい会社に勤めているよ」
「じゃあ、土日祝日はいつ会いに行ってもいいってこと?」
「構わない」
「なら、彼の都合に合わせて、土日に会いに行くね。決まったらまた連絡するから」
「わかった」
娘は今、どのような顔立ちになっているのだろう。高校生の時のようなあどけなさは消えて、社会人らしくなっているのだろうか。
「お母さんに変わるね」
電話で由里の声は消え、康子の声になった。
「もしもし?」
「ああ」
「私もね、あなたに話があるの。今度会えないかしら」
なんの用だろう。康子も再婚でもするのだろうか。
「土日ならいつでも会えるが」
「じゃあ、次の土曜に会いましょう」
喫茶店を指定され、電話が切れた。
炒めうどんは冷めてしまった。
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