なにがあるかわからない―神戸牛ー 第六話
「ジンジャーエール、久しぶりに飲みました。炭酸が口の中ではじけて気持ちがいいですね」
貴弘は気持ちがよさそうにストローを口にしている。忠一も飲んだ。程よい炭酸に、胃がさっぱりしてくる。
「それで。部長はどうなんですか。今幸せなんですか」
訊ねられて言葉に詰まった。幸せか、と言われるとわからない。この五年弱は罪悪感に苛まれて生きてきたのだ。幸せを感じることなどなかった気がする。
「事件が起きて、妻子は離れて行ったよ」
「離婚、ですか」
「そうなる。娘は母親のほうについていった。俺は完全に独りになってしまった。それも俺のまいた種だろう。今は残業のほとんどない会社に転職して平社員だけどそれなりにやっている。幸せかと問われると、ちょっとわからない。不幸にしてしまった人がいるのは事実だ」
言って息をついた。自分の人生、仕事一筋で幸せだったのだろうか。
少なくとも妻と娘、そして貴弘とそのご両親を不幸にしたことは間違いない。
パワハラをした部下にも。そんな自分が幸せになるなんて許されることではないのではないか。そんな気もする。
「娘さんは何歳ですか」
「出て行ったときは十八だった。短大へ行くための金銭援助はした。今はもう、二十三くらいになっていると思う」
「会わないんですか」
「ああ。離婚して以来、一度も会っていないな」
元妻も娘もどうしているだろう。一人になると、そんなことを思うこともある。
「幸せってこまごまとしたことでもいいんですよ。今日みたいに神戸牛が食べられて幸せだなぁとか。ちょっとした嬉しいことがあれば、それは幸せなのかもしれません」
「なら不幸も同じだろう。ちょっとした言葉で相手を傷つける。俺もそうしてきてしまった」
「幸せを感じられればちょっとした不幸は取り消せるんです。人生、なにがあるかわかりませんよ。今日だってこうして部長と会えたのは奇跡ですし」
「確かに奇跡は起きた。ずっと謝る機会を失ったと思っていたから」
すると孝弘はすっと身を引いた。
「部長は罪悪感で充分苦しんだのでしょう。その罪悪感があって、罪を一生背負っていく覚悟なんだと思ったら俺も素直に許せました。で、そろそろ幸せになってもいいんじゃないかと。だって俺が死んで何年経ちますか」
「……もう、五年になるか。君のご両親には許されていないんだ」
「俺と両親は別人ですよ。そこをお忘れなく」
もう、貴弘からは許された。そうして、幸せを探して行けと言われている。自分が幸せだと感じたのはいつの頃だろう。
プロポーズをして、受けてもらえた時と、娘を授かった時だろうか。
あの時はまだ家庭を顧みていて、嬉しいこともたくさんあった。
「俺はどうしてああなってしまったのだろう」
「あなたも結局、あの会社に洗脳されていた被害者なのではありませんか」
「洗脳?」
「はい。会社なんて宗教と同じですよ。新入社員を自分の会社の色に染め上げていく。数々の言葉で、自社の方針に従い、身を粉にして働けと洗脳していく。周囲が長時間働いているから自分も働かなきゃいけない。部長の言葉のシャワーを浴びて、俺も会社人間として洗脳されていった。でも部長も、部長になる前は誰かに怒られ続けてああなったのではないですか」
言われてみると確かにそうだ。先代の部長から、やはり罵倒雑言を浴びせられていた。
結果の出せない奴はできない人間だと言われ続けてきた。そうして仕事をどんどん持ってこられて、終電で帰る日々になった。今日の仕事は今日終わらせろ。それが先代の部長の口癖だった。いつの間にか、その部長は会社からいなくなっていたのだが。
「俺も先代の部長と同じになっていたということか」
「そういうことなんでしょうね。あの会社は悪習慣が続いているということです」
今はどうなっているのか知る由もないのだが、やはり社員は残業をさせられているだろう。
「今の会社はどうです?」
「給料は減ったが快適だよ。最初の一か月は、こんなにも仕事をしなくていいのかと思ったくらいだ。今はもう慣れて、それが当たり前になっているけれど。六時に帰れるというのがこんなに楽なことだとは思わなかった」
「そうでしょうね」
「ただ、仕事に打ち込んでいたいときもある。家に帰っても誰もいないから」
「自炊はしていますか」
「いや、あまり。弁当屋の弁当で済ませている」
妻の手料理が、ありがたかったと最近では思っているところだ。
「自炊すると楽しいですよ」
「ああ、そうしてみるよ」
「それに、独り身なら、コミュニケーションは大事ですよ。横のつながりを作っておくと、病気した時でも助けてくれる人がいると思いますから」
「アドバイスありがとう……」
貴弘には横のつながりを持つ機会なんかなかった。だから倒れてもしばらく、誰からも発見されなかったのだ。時間も大事だ。仕事に使うだけではなく、他社との関係を築くための時間が。
不意に、店内から大きな声が聞こえた。
「俺と結婚しよう!」
見ると、若い男性が立ち上がり指輪ケースを見せて、女性にそう言っているところだ
った。
女性ははにかむように、「はい」と答えた。
周囲が注目している。そうして、一斉に拍手が起きる。
貴弘も笑顔で拍手をしていた。忠一も自然と手を叩く。自分がプロポーズした時のことを思い出して、気分が高揚した。
「ほら、人生なにがあるかわかりませんよ。故人にプロポーズする人だっているんですから。亡くなっているのは女性のほうですね」
「わかるのか。俺にはどちらが故人なのか見当がつかんが」
「死者は分かります」
「そうか」
もう会えないのに、死者に結婚を申し込むのも凄い度胸だ、と思う。
「でも結婚は禁止されているのじゃなかったか」
「生きている人間なら、結婚を申し込んでもいいんじゃないですか。天国で一緒に生活するわけでもなし、あの女性が天国に指輪を持っていけるわけでもなし。そこは生きている側に許されていることで、あの男性の意思と想いの深さなんでしょうね」
「彼が何十年後かに死んだとき、あの女性と一緒に過ごせるのか」
「一緒に過ごすことはできます。ただ婚姻を結んで一緒に暮らすことはできません。でもああいう場合は特例として認められるのかな。ただ、死んで天国に行ったときおじいちゃんになっていたら、女性のほうもどういう反応をしますかね」
貴弘は肩をすくめた。少しだけ、言葉に皮肉が混ざっていた。
結婚できない理由を、貴弘から聞く。ただ、地上ですでに結婚している人は、死後一緒にあてがわれた住居に住めるのだとか。では離婚した人間はどうなるのだろう。やはり妻子とは別々に過ごすことになるのだろうか。
「年齢を重ねると、一年があっという間に感じられる。私もすぐに老いて、死ぬのだろうな」
そうして孤独に死んでいくのだ。
あー、と貴弘は息をついた。
「今、孤独死考えましたね? なんとなくわかりました。だからもう、残りの人生は後悔することなんてやっちゃだめですよ。後悔しないように生きていくんです。そうしないと天国でも苦しみますからね。天国であなたみたいに土下座していた人、見たことがあります。当人の間になにが起きたのかはわかりませんが、気まずい関係が続いているみたいですよ」
「植村君は未練はあるのか」
「そりゃ、未練たらたらですよ。苦しみもします。地上でもっとやりたいことがあったって。でももう謝罪の言葉は聞きましたからね」
これ以上の謝罪を、もう貴弘は受け取らないつもりだ。
「わかった。後悔しないで生きるよう、肝に銘じておくよ」
「はい。それじゃあもうそろそろ時間です」
腕時計を見る。食堂にいたのは一時間と少しだ。
「もう言いたいことは言いました。神戸牛、ごちそうさまです」
立ち上がると、貴弘はお辞儀をして去っていった。
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