なにがあるかわからない―神戸牛ー 第五話
貴弘は思い出したのか、ちょっとだけ怒ったような顔をした。ただ責められている気は全然しない。
「私の思い込みだったんだ。終電まで働くことは。それが当たり前だと思い込んで、その価値観を部下に押し付けていたんだ。もちろん君にもね」
「迷惑な話ですね」
「ご両親にも申し訳ないことをした。君の未来を奪ってしまって心から謝罪する」
「本当ですよ」
貴弘は少しだけ膨れっ面をした。
「誰かいい女性と出会って、結婚だってしたかったし、家庭だって持ちたかった。子供だってほしかったですよ。そんな普通の幸せを手に入れたかったです。俺にはそれが許されなかった。でも、ブラック企業に入ってしまった時点で俺は一切の期待を捨てました。友達……他人と比べてはいけない。休暇にどこかへ行こうとするのもやめる、人並みの幸せを手に入れようとしない、そう言い聞かせていました。でも部長は人並みの幸せを手に入れていたんですよね」
忠一は姿勢を正した。
「ああ。そんな当たり前のことを全部君から奪い、捨てさせてしまった私が悪い」
「部長は休日、どこかへ行ったりしていたんですか」
「どこへも行かなかったけれど……でも一年に一度くらいは家族と出かけるくらいのことはしていた」
「家族、やっぱりいるんですよね」
「出ていかれてしまったがな……」
フォークで塩胡椒のついたもやしを突き刺し、口に入れる。ただのもやしなのに、いい焼け具合で焦げ目がついて旨かった。オニオンスープも飲んでみる。これも体に染みる。
貴弘も真似ていた。
「このオニオンスープも美味しいですね。ここの食堂、絶品じゃないですか」
「本当に絶品だ。まさかここまで旨いとは思わなかった」
神戸牛も、焼き加減が絶妙だった。添えられていたコーンもブロッコリーも、新鮮でおいしく感じられる。東郷は相当料理の腕がある人物のようだ。
「本当、働いているときは心身ともにしんどかったです。部屋もワンルームで狭いところでしたし。社員に熱があっても部長は出勤させていましたよね。俺が死んだときのことも話しましょうか。もうずっと、体調が悪かったんです。それは日々の疲れだろうと思っていました。このままでは死ぬかもしれない。それで本気で転職を考えました。夜……夜中帰ってきてから退職願を出そうと白い便箋をコンビニで買ってきたんすよ。便箋を広げて……でも字が書けないんです。疲れ切って、ペンが動かない……動かせない。そのままふらつき、椅子から転げ落ちて倒れて、動けない。意識がなくなって、それが最後です」
働いている人は、皆生きている人間だ。仕事に意識が行き過ぎて、人間を人間とみなさなくなったのはいつからだっただろう。仕事がしんどい。
若いころそう思っていた時期も俺にはあったはずなのに、と忠一は思った。
ワンルームで誰にも看取られることなく死んでいった貴弘に、両親が怒るのも無理はない。
どうして働いている人たちを人間とみなして、もっと体調に配慮してやれなかったのだろう。平社員だけれど今の職場がそういう環境なだけに、忠一はますます後悔をする。
「もう、神戸牛だけじゃ謝罪は足りない。いくら謝っても、謝り切れない。俺はどうしたらいいだろうか。どうしたら君に償えるだろうか」
「生きて社員一人を死なせてしまったこと、罪悪感に苛まれながら一生生きてください。いまさら謝るなら、最初からあんなに働かせないでくださいよ」
貴弘はそう言った後で笑った。
「でも、天国では労働から解放されるんですよ。なにもしなくていいんです。好きに過ごしていいんです。子供は勉強する時間があるようですが、大人にはなにもありません。だから今、心身ともに快適だし、好きなことができて充実しています。同じ過労で亡くなって天国へ来た人とも知り合いになり、時々会社のことを愚痴っては、ひどい会社だったね、なんて言って笑い合っています」
「天国で友達もできたのか」
「はい。毎日のように遊んでいますよ。娯楽施設も充実していますから。地上で上映されている最新の映画なんかも見られるんですよ。映画館には週二ペースで通っていますね。あとは海へ釣りに行ったり、友達とゲームをして遊んだり」
自由を満喫している。天国では働かなくていいし、好きなことをしてもいい。
それは、少しだけ忠一の救いになった。
「そうか。そんなに自由ならそれはよかった」
「生きているときは映画にさえ行けませんでしたからね。ただ、結婚は禁止されています」
う、と思った。何かしら事情があるのだろう。
「結婚という幸せを、君は手に入れたかったのだろう」
「正直に言えば。でもそういう決まりですから仕方がありません。ただ女性と話すのもどこかへ行くのも自由です。恋愛もできます。だから今は大学生のころのように、男女混合で知り合った人とわちゃわちゃやっていますよ。毎日が楽しいです」
「そうか……」
「俺に妻子がいたら、あなたを許さなかったでしょう。地獄の果てまで追いかけて、とりついて殺していたかもしれません。でも独り身です。だから俺は、あなたを許します。さっきも言ったとおり、もともと許すもなにもないし、恨みもなかったですけど。部長は自分を責めているようだったし、俺に責められたい感じがしたので、愚痴を言いました。もう一度言います。俺はあなたを許します」
涙が溢れてきた。貴弘はすべて忠一の考えを見通して、色々なことを言ってきたのだ。でも心の中ではそこまで恨んではいなかった。
許す、と言われたことにより救われた気持ちになった。
「はい、この話はこれで終わりです。泣かないでください」
貴弘は淡々という。それでも忠一は何度も言った。
「すまなかった……」
「何回言う気ですか」
ちょっとおどけたように貴弘は笑った。そうして神戸牛最後の一口を食べると、ごちそうさまでした、と手を合わせた。その間、忠一は何も言えなかった。
東郷がやってきて、食器を下げる。そうしてドリンクのメニューを差し出した。
「黒島様、ドリンクのメニューをお選びください」
本当は貴弘に選ばせてやりたかったが、それはルールとしてだめなことらしい。
スパークリングワインが飲みたかったが酒はないようだった。
さっぱりしたものが飲みたい。
「ジンジャーエールでいいか」
「なんでもいいっす」
「ではジンジャーエールを」
「かしこまりました」
東郷はいったん去り、すぐにジンジャーエールを持ってくる。
「おまちどう様。ごゆっくり」
「ここの店主、渋くてかっこいいすね」
東郷がいなくなったあとで、貴弘は声を潜めて言った。
「そうだな」
自分とは異なり、いい年の取り方をしているように思える。
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