なにがあるかわからない―神戸牛ー 第四話
「これ、なんの肉ですか」
「神戸牛だ」
「神戸牛? そんなの食べたことないですよ」
貴弘は嬉しそうな声を出した。
そうだろうな。食べに行く暇などなかっただろう。
神戸牛の下にはもやしが、鉄板皿の端にはブロッコリーとコーンが添えられていた。
それからご飯とサラダ、玉ねぎのスープが置かれている。神戸牛はどこの牛肉よりも旨い、というのが忠一の中の位置づけだ。三十代のころ出張で初めて食べたとき、世の中にはこんなに美味しいものがあるのかと思ったくらいだ。
サラダを先に頂いてからフォークとナイフで切り、一口食べる。神戸牛特有の弾力がある。塩と胡椒が効いており、旨味を引き立たせている。
「植村君も食べなさい」
なかなか手を出そうとしない貴弘を見て、そう言った。
「でもこれ、おごりですよね。高いんじゃないですか。なんか申し訳なくて」
「いいから」
貴弘は真似て、サラダを食べてから塩胡椒の利いた神戸牛を食べる。
「んんんんん」
そんな声が響き渡り、体を震わせている。
「なんですか、これ。こんなおいしい牛肉、食べたことないです」
「そうだ。俺もこれ以上旨い牛はないと思っている」
一口食べるたびに貴弘は「うまっ」と言っている。その顔は笑顔で喜んでいるようにも感じられた。
「どうして急に、こんなに旨いものを食べさせてくれる気になったんですか」
「謝罪のつもりだ。これで許されるとは思っていないけれど……」
言うと貴弘は真顔になった。
「父さんと母さんは会社を訴えたらしいですね。天国から見ていました」
「ああ。示談になったと聞くが」
「それは本当みたいですね。会社側は両親に多額の金額を支払ったとか」
「金の問題じゃないだろう……それにさっきから植村君は部長と呼んでいるが、もう私は君の部長じゃない。今はクビになり別のところで働いているよ」
「そうはいっても今更黒島さんとかいうのもむずがゆくて。部長って呼ばせていただきますよ」
「君がいいなら、まあそれでも構わないが。本当に悪いことをしてしまったと思っている。なんでもいいから話を聞こう。今日は謝罪と、恨みつらみを聞くつもりでここへ来た」
忠一はうつむいた。
「正直言うともう気にしていませんよ」
「でも当時は辛かっただろう。なんでも聞く」
貴弘は少し無言でいたが、やがて口を開いた。
「なら、愚痴に付き合ってください。あの会社、労働環境見直したほうがいいですよ。部長だけじゃなく、どの部署も似たような感じでしたからね」
「労基が入ったみたいだが……今は直っているかどうか」
「労働ってなんでしょうね。よく新入社員の挨拶で『身を粉にして働く所存です』という言葉がありますけど、そんな言葉自体があるのがもうおかしいですよね。身を粉にしていたら死にますよ、俺みたく」
「そうだな……」
貴弘は一口で大きく食べるのがもったいないと思ったのか、神戸牛をさらに細かく切り、味わっている。
「生きて生活するために労働するんです。それが、あの会社では労働するために生きているみたいな感じになってきて。ブラック企業ですよね。まぁ、他にもごまんとあんな会社はあるのでしょうけれど。人権なんていうものが全くなかったです」
「ああ。罵倒雑言もすまなかったと思っている。植村君を死なせてしまったことで、毎日罪の意識にさいなまれ、最近では眠れなくなってしまって」
「少しくらい痛い目見てください」
「そうだな。これも全て、自分が招いたことだ」
「まったくですよ」
否定こそしないものの、貴弘は別段怒ってはいないようだ。
本当にもう気にしていないのだろう。
「まあ、社畜生活は辛かったですよ。でもだんだん、そんなことも麻痺してきて。ただ会社へ行って何も考えずに働いて、夜中に家に帰る日々でした。親にもめったに会えなくなりましたし、遊びに行くこともできなくなりました。土日はひたすら寝るだけで、どこかへ行こうという気さえなくなっていましたね。罵倒雑言で精神やられていました。パワハラですよ」
「ああ。今になってパワハラだと気づいた」
「今まで気づいていなかったんすか」
貴弘は驚いたように顔を上げる。
「全く気付いていなかった。仕事優先だったから、言ったとおりにできない奴、結果を出せない奴に苛立っていたんだな俺は」
「カルシウム足りてたんすか」
「わからないが……カルシウムと言えば君の食生活もひどいものだっただろう」
貴弘は大きく頷く。
「最初のうちは自炊していたんです。自炊することでいくらかストレス発散にはなっていました。でも、自炊することよりも睡眠時間が欲しいと思ってコンビニ弁当になりました。それでも寝るのは二時半だったんですけどね。自炊していたときは睡眠時間二時間でしたよ。これは明らかに一線を越えています。何度も転職を考えていましたよ」
「すまなかった……」
「なんでそこまで働かなきゃいけなかったんすか」
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