なにがあるかわからない―神戸牛ー 第二話
五年前まで、仕事一筋の人生だった忠一は、家庭を顧みることもなくなにかに取り憑かれたかのように終電まで仕事をしていた。
そうした時間まで仕事をするのは当たり前。そう思いこんでいた。
だから部下も終電まで仕事をするのは当たり前。
人生をすべて、倒れるまで仕事に賭けろ。そう教育していた。
あまり記憶にないのだが、部下たちに罵倒雑言も吐いていたと思う。
だから部署の離職率も高かった。それですぐに辞めてしまうやつは甘ったれだ。そんなことも言った覚えがある。今でいうところのパワハラ上司になっていることにも気づかずに。
そうして、二十五歳の男性社員、植村貴弘を過労死させてしまった。なかなか出勤してこない貴弘に、何度も電話をかけた。病気でも会社に来させるつもりだったし、さぼりや寝坊ならば怒鳴りつけてやろうと息巻いていた。
だが、何度かけても全く電話に出ず、二日後の夜に母親から電話がかかってきた。
「息子が一人暮らしのマンションで、一人で死んでいました。十二時間、誰にも発見されませんでした」
それだけ言って、電話は切れた。その時はなんだ、死んだのか。くらいにしか思っていなかった。
更に翌日、電話が再びかかってきた。司法解剖し、医者が総括的に判断した結果、過労死だったという。
専務と社長と共に形式的に告別式に参加させてもらったが、貴弘の両親からは素っ気ない態度をとられた。そうして言われた。「今日だけは許しますが、もう私たちの前に顔を見せないでください」と。
その後、両親は会社を訴えた。大手企業だったのでマスコミが騒ぎ始め、苦情の電話が鳴り続けて職場は混乱した。
連日報道され、社会問題にもなった。ネットのコメントは批判で溢れかえり、やがては社長や忠一の身元まで特定されてしまった。家に嫌がらせをされたこともある。
それでも仕事に没頭しようとした。だが、社長は部署内で聞き取り調査を行い、忠一にクビを言い渡した。今回の騒動は、すべて忠一の責任である、と。
社長はただ定型的な謝罪文をマスコミに公表し、それが余計に世間からの批判を煽った。忠一はことの重さを悟ったが、会社から離れてみるともう関係ない、と思うようにもなった。
一年も経つと過労死問題は風化されていった。
妻は離婚届けを突きつけ、娘を連れて出ていった。
一人を過労死させたことにより、なにもかも失ってしまった。
残された一軒家で独りで住む日々。再就職をしようとするも、三十社以上は断られ、ようやく職にありつけたものの事情を知っている社員からは、陰口をたたかれていた。
そうしてさらに仕事に没頭し、残業をしようとしたとき、自分よりも年下の上司から言われた。上司は忠一の悪口を言わない人だった。
「黒島さんはどうしてそんなに働こうとするんですか。うちの会社は、六時で終わりですよ。定時で帰ってください」
言うとおりにした。毎日六時に仕事を終えるようになって、夏至前の七時近くまで日が沈まない時間帯に帰っているときにするりと洗脳がとけた。
どうして自分は今まで、あんなに身を粉にして働いていたのだろうか。
なにも終電で帰らなくてもよかった。それを部下に強制していた私はどうかしていた。そうして、一人の若者の未来を奪ってしまった……。
大手企業の会社にいたときは、人が死んでもほとんど何も思わなかった。誰かが死んでも替えはいくらでもきく。
そんなことさえ思っていた。だが、新しく就職した先はあまりのホワイト企業で、日に日に罪悪感が芽生えていった。
俺は一人の人間を殺した。その死をしばらく悼むこともなく、過ごしてきた……。
貴弘が、今忠一が働いている企業に就職していたら、死なずに済んだ。
俺と出会わなければ、今頃は生きて輝かしい生活を手にしていたのかもしれない。部下を死なせたのに、自身の日常は続いていく。
そう思うと、やるせなくなった。
どうして俺は、毎日のようにあれほど怒り狂っていたのだろう。もっと冷静に、きめ細やかに社員のことを見るやり方だってあったはずだ。どうして俺は……。
罪の意識と後悔の念が強くなり、夜は眠れなくなった。心療内科へ行って睡眠薬を飲まなければ、罪悪感で気持ちが押しつぶされそうになる。貴弘はさわやかな好青年。
せめてもの償いに、直接謝れないものだろうか。謝罪したい。旨いものでも食わせて
やりたい。
報道で知ったことだが、あいつの食生活はコンビニ弁当や冷凍食品、カップラーメンばかりだったという。終電で帰り、飯を作る余力もなく、寝るのは午前二時半。
五時には起きて会社へ行く。それは忠一が、毎日六時に会社へ行っては仕事をしていたからだ。部下もそうしなければいけない、という雰囲気を気づかぬうちに忠一が作っていた。それなら心身が摩耗するのも無理はなかったのに。どうしてあの時の俺は気づかなかったのだろう。
そんなとき、今の会社の休憩室で、彼岸食堂の噂を話しているのを耳にした。
謝れるのなら、その彼岸食堂へ行けないだろうか。
そう思っていたときに招待状が届いた。これはチャンスだと思った。
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