ありがとうー海鮮丼ー 第九話
会計をするために、レジの前に立つ。東郷が出てきた。
「ご友人とお話はできましたか」
「はい。短い間でしたけど有意義な時間を過ごすことができました」
理人と本音で話し合えた気がした。満腹感と、満足感が今、胸の内を支配している。
支払いを済ませ店を出ると、ありがとうございました、という声が背中を追いかけてきた。
午後一時。なんだかとてつもなく海を見たくなった。することもないし、少し、見に行こうか。そう思うと、走って電車に乗った。江の島まで行く。
理人と新江ノ島水族館にも行ったことがある。思い出をなぞりながら水族館を見て回り、出ると砂浜のほうへと足を運ぶ。
空に鳶が飛び回っていた。潮の香りがする。水平線が見渡せる。海にはサーファーの人たちが泳いでおり、さざ波の音が聞こえていた。海を見ている人たちも大勢いた。
階段に腰を掛け、海を眺める。先月まではおそらく、海水浴の場として賑わっていただろう。
「あ」
天使のような「あ」が聞こえた。見ると三歳くらいの男の子が一人、吉樹のもとへ近づいてきた。まとわりついて離れない。どうして俺のもとにはこんなに子供が寄って来るのか、と不思議に思う。
子供は吉樹の手を握る。
「どうした」
周囲を見ると、母親が慌ててやってきた。
「すみません。この子、あなたのことが気に入っちゃったみたいで」
今日はこれで二度目だ。
「何歳ですか」
「三歳です」
中学一年の時も、この江ノ島で俺の周りにどんどん小さな子供が集まってきて一時間ほど砂遊びをする羽目になった。それを見て、理人は笑っていたっけ。
男の子は膝の上に乗ってくる。
「すみません。もう、なにをしているの」
母親が謝り、引き離して抱っこしようとするのを、吉樹は止めた。
「膝の上にいてもらって構いませんよ」
吉樹を見る目が不審なものに変わった。さっと子供を抱き上げ、そそくさと去っていく。中々に世知辛い世の中だ。
少しだけ、寒さを感じた。九月でまだ暑いと思っていても、海に長くいればさすがに寒さを感じる季節になっている。立ち上がって帰ろうかと思った時、再び「あー」という声が聞こえた。
先ほどとは異なる、別の女性に抱っこされた赤ちゃんが吉樹を見て手を伸ばしているところだった。本当に、なぜだか子供に好かれる。今日はこれで三人目。
「すみません。この子さっきからあなたのほうばかり見ているんです」
女性は謝る。赤ちゃんは吉樹を見て必死に手を伸ばしている。
「男の子ですか、女の子ですか」
「男の子です」
話している間にもあーあー、と言いながら吉樹を見て笑顔になる。
「あの、少し手を触れても?」
「はい。構いません」
多分、まだ若いから許される。これが中年だったら許されない、かもしれない。
若さの特権を使おう。
吉樹は赤ちゃんの手を握った。すると赤ちゃんはきゃっきゃと笑う。
まだ何も知らない、小さく無垢な手は、少しべたついていた。
先ほどの三歳の男の子も、生まれてから三年しか経っていない。
ああ、理人が死んだ年に生まれたのか。そう考えると、無力感に襲われた。
老若男女関係なく、毎日のように誰かが死んで、毎日のように新しい命が誕生している。
毎日が誰かの誕生日で、毎日が誰かの命日なのだ。そうやって、命の循環が行われている。なんだか不思議で、泣きたくなった。
俺もいつか家庭を作って、子供ができる日が来るのだろうか。パパになれることがあるのだろうか。
これまでまるで思っていなかったことを想像してみる。今まで理人を死なせた罰として考えてもみなかった反動か、想像はどんどん膨れ上がっておじいちゃんになって孫ができるまでの道筋まで思いを馳せてしまった。
「赤ちゃんって可愛いですね」
「ええ。本当に。お世話をするのは大変ですけれど、寝顔を見ていると疲れも吹き飛ぶんですよ」
赤ちゃんは再び手を伸ばしてくる。吉樹は優しく握った。
するとしばらくして、赤ちゃんは眠ってしまった。
「落ち着いたようです。ありがとうございました」
女性はお辞儀をして去っていく。先ほどの男の子も、赤ちゃんも、数年後には俺のことなど忘れているのだろう。そう思うと、なんだか寂しくなって頭を掻いた。
一日で、死んだ者と生まれたばかりの者と、生まれてから十年に満たない者に会う。
一日を生きるたび、命の増減が繰り返される。世の中の神秘だ。今日会った子たちも、やがては十八になり、二十一歳になる。ちゃんと生きられるといい。
寒さを感じながらも、まだ理人との思い出を胸にしばらく海を見ていた。
もう誰も話しかけては来なかった。
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