気を付けてー天ぷらー 第十一話
「どこがいいかしら。あなたはどこへ行きたい」
「手始めに、箱根辺りがいいんじゃないか。近いし、一人旅もしやすいだろう」
「箱根か……」
小学生の林間学校以来だ。もう何十年も行っていない。箱根の様子も大分変わっているかもしれない。
「じゃあ、俺は最後のコーヒーを飲むぞ」
勝也はコーヒーを飲み干した。嫌だ。行かないで。行かないで。
小春も仕方なく、一口だけ飲む。手が震えていた。
「ここへ入店した時はあなたに会えて嬉しかったのに、最後はやっぱり悲しいものね」
「仕方がないさ」
もう、そろそろお別れの時が近づいている。でも仕方がない。帰ったら旅行の計画を立てよう。それが当面の目標だ。
「ありがとう……今日私に会ってくれて、ありがとう」
覚悟を決めるしかない。コーヒーを飲み干す。カップは空になった。
「こちらこそ、ありがとうな。小春に会えた、美味しいものを食べられた。美味しいコーヒーが飲めた。こんなに幸せなことはない。この幸せも、すべて小春が運んできてくれたものだ。小春に出会えたから、俺はこんな幸せにありつけることができた」
「…………」
「もう、お別れの時間だ。案内人が来ている」
小春には、その案内人は見えなかった。多分亡くなっている人なのだろう。
「いつも見ているよ。二十年か三十年後に、また会おうな」
勝也は満面の笑みで立ち上がる。いるべき場所に帰るだけ。行かないで欲しい。もっと話がしたい。でも感情が溢れるばかりでなにを言えばいいのか、具体的な言葉が口から出てこない。ならひとつ、あの時言えなかったことを言わなくちゃ。小春も無理に笑った。
「いっていらっしゃい。気を付けて」
「うん。小春もこの現実世界で楽しくやっていけるように」
勝也は店の中央のなにもない空間に立ち振り返ると頷く。そうしてすっと消えていった。仕組みはどうなっているのかわからないが、勝也にとっては消えたわけではなく、死者にしか見えないエレベーターに乗っただけかもしれない。
後には寂しさだけが残っている。ただいまはもう聞こえないのだ。
涙が溢れてしばらく泣いていた。そのうち少々怒りに変わった。久々に会えて、食事が進めば進むほど一人で焦って、嫌だと、いかないでと泣きすがっていたのに、勝也はあっさり引き上げた。
天国にいってしまうと、そうした執着もなくなるのだろうか。
三十分ほど長居しても、東郷は何も言ってこない。
建物の空間にゆとりがあって居心地がいい食堂なのだ、と今更気づく。
そろそろ、帰らなくちゃ。そう思い、席を立つと、レジの前に立った。
「お会計お願いできますか」
「はい。二千円になります」
小春は戸惑う。
「え。お吸い物に白米付きで、あれだけの天ぷらの量二皿と、コーヒー二つでそんなに安いの」
「はい」
「魚介類なんかいいものを使っていたでしょう」
「そうですが、リーズナブルな価格でご提供させていただいていますので」
どう考えても利益は出ないだろう。この店がどうなっていて、どういうルートで食材を調達しているのか、あまり深くは追及しないことにした。聞いたところでどうにもならないしわからない。東郷に挨拶をして、店を出る。
「どうもありがとうございました」
そんな声が聞こえていた。
店内は空調が聞いて涼しかったが、またじりじりとした暑さが背中に刺さる。
そういえば満腹になっている。今日は夕食の時間をずらそう。
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