第17話 逃走
「はっ、はっ、はっ……!」
息が苦しい。
胸が痛い。
できるだけ障害物の多いところを回り込みながら走り抜ける。
四足歩行の獣は下り坂が苦手だと、どこかで聞いた気がするが──。
けれど相手は魔獣だ。
そんな一般的な獣向けの知識が通用する相手ではない。
頭の中をぐるぐると情報がかけ巡り、それと同時に死への恐怖が渦を巻く。
「はぁっ、はっ、はっ……!!」
今頃リーシャはキャンプに戻って来ている頃だろうか。
突然いなくなったわたしをどう思っているだろうか。
──助けて!
その一言が、喉を通らなかった。
本当に恐ろしいときは声が出ないというのは、こういうことだったのか、と今更ながらに納得する。
だが──。
考えようによっては、リーシャを巻き込まずに済んだとも言えるのではないか。
いくら彼女が強いとはいえ、魔獣相手では命のやり取りになるかもしれない。
あの鋭い牙がリーシャの首筋に突き立てられることを想像するだけでぞっとするし、わたしのせいで彼女がそんな事態に陥ったなら──、きっとわたしは立ち直れない。
「はっ、ふっ、はぁっ、はぁっ……!」
背後からは相変わらず獣の足音と、殺意の気配が追いかけてくる。
きっと、あいつは待っているのだ。
獲物が疲れ果て、足を止める時を。
精神も体力も使い果たし、心が折れたとき──。
やつは、確実にわたしの命を取りに来るのだ。
「はぁっ、はあっ……、ほんと、嫌になっちゃう、なっ……!」
このまま追いかけっこを続けていても、先に追い詰められるのはわたしの方だ。
なぜなら、相手は獣で、わたしは貧弱一般人。
地力の差など火を見るより明白だ。
こんなことになるなら、もっと毎日走り込みしてスタミナをつけておけば良かった……。
後悔先に立たずだ。
「くそっ……!」
とりあえずどこか、身を潜められるような場所はないか。
なんでもいい。
身を守りやすい場所か、わたしが有利に立ち回れる場所。
どこでもいい。
どこか──。
助けを求めるように、前方の木々の先を見つめた。
──その時だった。
「──え?」
視界に入ったものに、わたしは少し混乱する。
「あれって……、もしかして家……?こんな森の中に……?」
それは、木々の間を抜けた先の小さな空き地に、突然姿を現した。
丸太を組んで作られたログハウスのような、こぢんまりとした一軒家だ。
作りは古そうだが、手入れは行き届いているようだ。
周囲を囲う背の低い柵の中には、小さな色とりどりの花が咲いている。
夜空から降り注ぐ月明かり。
その光に庭の花々が照らされ、ぼんやりと幻想的に光っている。
それはまるで、そこだけ別の世界を切り取ったかのような──、異質で、不思議な空間だった。
「──だ、誰か!誰かいますか!?助けてください!」
とりあえず、なりふり構ってはいられない。
わたしは庭の柵を飛び越え、小屋のドアをドンドンと叩く。
窓には、たしかに灯りが灯っている。
たしかに生活の痕跡もある。
だが、家の中に人の気配は──。
「すいません、誰か……!誰か……!!」
背後からは魔獣の唸り声が近づいてくる。
慌てて振り返ると、黒々としたその魔獣は、小屋の庭先でわたしを見て牙を剥き出しにしていた。
足ががくりと折れる。
ドアを背に、ずるずると腰が抜け、膝に力が入らなくなる。
「あ、あ……」
もはや口から漏れるのは、嗚咽にもにた小さな声だけ。
ぐるる、と目の前で不気味に喉を鳴らす魔獣。
それに対して、もはや助けを求める声も出ない。
ああ、もう……、だめかも……。
自分はこんなところで死ぬのか。
まだ何もなしとげていない。まだ始まったばかりなのに。
孤児院のみんなやロマさん夫妻は元気だろうか。
リーシャはわたしを探しているだろうか。
ぐるぐると、大切な人たちの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
あの凶悪な魔獣はきっと、もう獲物が逃げられないということを確信しただろう。
暴風の如くわたしの喉笛に食らいつき、次の瞬間には肉を引き裂き喰い千切るのだ。
──もう、ここまでだ。
目尻に浮かぶ涙を抑え、ぎゅっと、目を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒……。
「………?」
だが、いつまでたっても、痛みや衝撃は訪れない。
喉笛も腕も脚も、魔獣の牙に引き裂かれる気配はない。
そのことに疑問を抱き、おそるおそる片目を開いて様子を伺った。
その時だった。
「──平気。魔獣はこの家の敷地には入ってこれない」
線の細い、琴を鳴らしたような声。
声量は小さいが、不思議な圧力を感じる声だ。
魔獣の気配が遠ざかっていく。
殺意にまみれていた周囲の空気が、ゆっくりと静かな夜の気配に戻っていく。
唐突に庭の裏手から聞こえて来たその声に、わたしは細めていた目をゆっくりと開いた。
「……女の子……?」
目の前には、一人の少女が立っていた。
夜風になびく銀髪に、病的ともいえるほどの白い肌。
なぜ、こんな森の中に、こんな子が……?
混乱する頭の中でいくつもの疑問が生まれては弾ける。
深い深い森の暗闇の中。
彼女の白を基調にした外見は、不思議と闇夜に映え際立っていた。
********************
さて。
あまりの急展開に頭がおいつかないが──、とりあえずわたしは助かったらしい。
今はもう、さっきの恐ろしい魔獣の気配もしない。
理由はわからないが、この場を離れてどこかへ去っていったようだった。
わたしはほっと息をつき、扉に寄りかかったままゆっくりと立ち上がる。
先ほどの銀髪少女が、じっとこちらを見つめていた。
庭の裏手からやってきたようだったし、おそらく花壇の手入れでもしていたのだろうか。
彼女はいったい何者なのだろう。
こんな深い森に、少女が一人きり。
とてもまともに暮らせるとは思えないが……、事実、この家は安全で、しっかりと整えられている。
──いや、なにより、まずはお礼だ。
状況確認はそのあとでいい。
「え、えっと……。その、助けてくれてありがとう……」
わたしは、おそるおそる感謝の言葉を伝える。
だが、わたしの言葉に、銀髪の少女は不思議そうに首を傾げた。
「………?べつにわたしは助けてない。あなたが勝手にうちの敷地に入って来た。だから勝手に助かっただけ」
「あ……、えーと……、そ、そうかな?そうかも……?」
「そう」
彼女はぼそりと呟き、頷いた。
うーん、ちょっと捉え所のない子だな……。
だが、結果的に助かっただけとはいえ、ここに彼女の家が無ければわたしは死んでいたのだ。
間接的とはいえ、やはり彼女は命の恩人だ。
恩には礼をもって報いるべし。
シスターも口を酸っぱくしてそう言っていた。
「えっと……、わたしはニナ。あなたの名前は?」
「メレル」
間髪入れずに、返答が返って来た。
だが──、返事はそれだけだ。
森の一軒家の扉の前で、わたしたちの間に無言の時間が流れる。
うう……、これはちょっと気まずい。
わたしはその時間を埋めるため、慌てて言葉を繋げた。
「メ、メレルちゃんだね。何かお礼したいんだけど……。いろいろ慌ててたから、今は小銭くらいしか持ってなくて……。とりあえず何かして欲しいことはある?なんでも手伝うよ!」
「して欲しいこと……?」
彼女はしばらく、ぼーっと家の屋根を見つめていたが、
「特にない」
うーん、特にないかぁ。
特にないのかぁ。
どうやら少し話してみてわかったが、この子は少し天然というか、淡白というか──。
どうにもちょっと浮世離れしたところがあるようだ。
まあ、こんな森の中に一人で暮らしてるような少女である。
ちょっと変わっているところもあるのだろう。
「あー……、えっと……」
「……………。」
彼女は無言のまま、扉の前で棒立ちしているわたしをしばらく見つめていた。
……数秒の沈黙。
そして、少しの間を挟んだのち──、やがてちょっと首をかしげて頷いた。
「ああ、一個あった」
「お、おぉ!なになに?遠慮せず何でも言って!薪割りでもトイレ掃除でも何でもするよ!奴隷だと思ってこき使って!」
どんとこい!という感じでわたしは両手を広げて歓迎の意を示す。
彼女はわたしのポーズを興味なさげに見つめたあと、ぼそりと口を開いた。
「──そこ、どいて」
「………え?」
「わたしが今、あなたにして欲しいこと。扉の前、邪魔だから」
「あ……、う、うん……」
わたしはずりずりと扉の前から横にずれる。
銀髪少女はすたすたと扉の前にくると、てきぱきと鍵を開く。
そして、するりと開いた扉の中に入りこみ、
「それじゃ」
と言って、家の中へと消えてしまった。
バタンと閉められるドア。
なんとも無情な音が、深夜の静けさの中に鳴り響く。
「………え?」
ぽつんと一人、家の前に取り残されるわたし。
あまりの唐突さにしばらく茫然としていたが、すぐに、はっと気を取り直す。
目の前には、安心安全な暖かな小屋。
背後には、命を脅かす危険な魔獣のうろつく夜の森。
選択肢など、なかった。
「ま、待ってぇ!お願いします!今晩だけでも泊めて!わたし何でもする!何でもしますからぁ!」
なりふり構ってなどいられるか!
わたしは半泣きで家の主に訴えかける。
深夜の森の夜空に、悲痛な叫びが響き渡ったのだった。
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