第16話 霊樹の森②
あれから、森の中を歩き続けて数十分ほど。
まずいことに、どうもさっきから同じところをぐるぐると回っている気がする。
──人を惑わす魔力を帯びた森。
衰えたといえど、その言い伝えは真実らしい。
おそらく結界魔術的な何かと似たようなものなのだろうが……。
あいにくわたしは高等魔術には詳しくないし、それはリーシャも同じことだろう。
先程ついに日が沈み、あたりの木々もすっかり暗幕を降ろしている。
これ以上暗い森を歩き回るのは得策ではない。
少々時間的に出遅れた感はあるが、ここらで野宿のためのキャンプを広げておくべきだ。
幸いにして、今夜は月も明るいし、今からでも簡易テントを準備することは可能だろう。
「どこかいい場所は………っと」
ふと木々の向こうに目を向けると、一段高い丘の上に、少し広めの空き地が見えた。
見通しもよいし、あそこなら臨時キャンプには適しているはずだ。
「よし、リーシャ。今日はここで野宿にしよう」
わたしの言葉に、リーシャは「はい……」と肩を落とし、頷いた。
相変わらず失敗を引きずっているのか、彼女はいつもよりも元気がない。
少しためらうように地面を見つめた後、控えめに顔をあげた。
「ほんとにすみません、わたしのせいで……。今頃は隣町の宿だったはずなのに……」
「いいっていいって、ほんとに気にしてないよ」
失敗は誰にでもある。
それに、あれだけの大荷物を運んでもらっているし、それだけでも充分彼女は役に立っている。
「それにわたし、野宿って初めてなんだよね。じつはちょっと楽しみ」
リーシャににこりと笑いかける。
彼女は、少しとまどったような表情を見せたが、ようやく彼女もふわりとした笑顔を返してくれた。
「……そうですね、いつまでもうじうじしてられません。これからのことを考えないと!」
リーシャはぐっと拳を握り直す。
「寝床の設営します。ニナさんは食事の準備お願いできますか?」
「おっけー。任せて!ニナさん特製高級フルコース料理作っちゃうよ!」
「メニューの内容は?」
「干し芋干し肉干し魚!」
ばちりとウィンクし、親指を立てる。
リーシャはくすりと声を漏らし、「それは楽しみですね」と、唇の端を緩めるのだった。
*************************
ぱちぱちと薪の弾ける音。
周囲の木々に焚き火のオレンジ色が反射し、暗い森にふわりと明るい空間ができている。
キャンプの設営はつつがなく完了し、簡易的だが食事もとることができた。
初めてにしては上出来だろう。
今後の旅にも自信が持てるというものだ。
「ふぃー、お腹いっぱい。ごちそうさまでした」
ぽんぽんと腹を撫で、息を吐いた。
まあ、簡易料理なので味はそれなりだが、少し量を多く作りすぎたかもしれない。
無駄遣いは旅費を圧迫するし、次からはちょっと気をつけよう。
リーシャも満足そうに焚き火の火を見つめている。
その表情は、先ほどよりもずっと柔らかい。
なんとかいつもの調子を取り戻したようだし、やっぱり食事というのは大事だ。
腹も膨れれば気持ちも前向きになる。
毎日ごはんはしっかり食べなさい、というのがロマさんの教えだ。
さて、しばらく炎を見つめていたリーシャであったが、ふと立ち上がって伸びをする。
「あ、ニナさん。わたしその辺で少し薪を拾って来ますね」
「ん?ああ、おしっこ?───あ痛っ!?」
無言でベシッと頭をはたかれた。
「痛ったいなぁ。二人だけなんだからべつにいいじゃんよ……。……あ、一応だけど、あまり遠くには行かないでね?」
「なんですか?ああ、やっぱりニナさんでも、夜の森で一人きりは怖いんですか?」
にんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべるリーシャである。
いやまあ、怖いよ?
暗いところが怖いというよりも、魔獣や野犬のほうが恐ろしいところではあるんだけれども。
「それもあるけどさ……。ほら、リーシャ、また迷子になったら困るし……」
「はうっ……!だ、大丈夫ですよ!ニナさんのにおいが感じられる範囲で行ってきますから!」
リーシャは顔を真っ赤にして力説する。
それにしても、においか……。
今日はたくさん歩いたし、岩や木の間を縫うように歩いて来た。
獣人種は鼻がいいと聞く。
彼女に面と向かってにおいがどうとか言われると、とたんにちょっと気になってくるというか……。
「ねぇ、……わたし、もしかして臭う……?」
「うーん……。いや、ニナさんはリタリンの花みたいで良いにおいですよ。今は汗と土と脂のどろっとした感じが混ざって、ちょっとわかりにくくなってますけど。言うなれば野生的な感じです」
「いや待って。それってそうとう臭いってことじゃん!」
風呂!
タステルの街についたら真っ先に風呂だ!
頭を抱えるわたしの横で、「それじゃあ、ちょっと行って来ます」とリーシャはすたすたと木々の奥へと消えていった。
月明かりがあるとはいえ、さすがに森の夜は暗い。
彼女の姿もあっさりと暗闇にとけ、わたしは一人焚き火の前に残される。
ぼんやりと周囲に映し出される影。
暖かに広がる光が、わたしの体を優しく包み込むように揺れる。
「……焚き火ってやっぱり落ちつくなぁ。今ってちょっと遭難してる感じだし、けっこう大変な状況のはずなんだけど」
パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながら、ぼんやりと空を見上げる。
背の高い木々の枝葉のさらに奥。
隙間から見える星空は、まるで宝石を散りばめたかのような美しさだった。
突然降ってわいた1000万の遺産相続。
自由奔放な我が母の置き土産。
いろいろと驚かされたり、面倒だと思ったこともあったけれど──。こうして信頼できる友達もできたし、こんな綺麗な星空を知ることもできた。
そのどちらも、あのまま孤児院に引きこもっていては、一生手に入らなかったものだろう。
正直なところ、わたしを置いてどこかへ行ってしまった人間を母と呼ぶのは、ほんの少し抵抗もある。
けれど、わたしを旅へと誘ってくれたこと──。
そのきっかけをくれたことだけは、彼女に感謝してもいいかもしれない。
「旅か……。……母さんも、わたしと同じように旅をして、同じように星空を眺めてたのかな……」
後に無血の英雄と呼ばれるようになった彼女は、自身の旅の果てに何を思っていたのだろう。
はぁ、と夜空に向かって息を吐く。
らしくないことを考えてしまった。
夜の闇と初めての野宿で、少し感傷的になっているのかもしれない。
もう一度小さく息をつき、視線を森へと降ろした。
──そのときだった。
ふいに背後の茂みから、がさり、と何かを掻き分けるような音がした。
「──ん?」
リーシャだろうか。
ずいぶん早いな。やっぱり小さい方だったかぁ。
なんてことを呑気に思い浮かべながら、わたしはくるりと振り返り、音のした方に視線を向ける。
そして──、わたしの視線は固まった。
茂みの隙間からのぞく真っ赤な瞳が二つ、こちらをじっと見つめていた。
ぐるる、と喉を鳴らす不気味な音が聞こえる。
血の気の多い息遣い。
剥き出しにされた牙の隙間から、粘ついた涎がだらりと地面に落ちる。
誰が見ても瞬時に理解できる。
あれは獲物を前にした高揚だ。
その獲物とは、つまり──。
目の前の『魔獣』の赤い瞳が、こちらをじろりと見つめる。
目が、合った。
次の瞬間──。
──その狼のような体躯が一足飛びに、こちらに向かって地面を蹴った。
「ひっっ!??」
やばい!やばいやばい!
心の内で叫び声をあげつつ、横に転がる。
頭上を通り過ぎる殺意の気配。
小石や木の枝が体にひっかかり、肌を走る痛みに思わず顔を顰めた。
突発的な恐怖に、叫び声が喉に張り付く。
大声をあげたいのに、うまく声が出せない。
初撃は運よく避けられた。
でも、次はどうする!?
わたしは戦闘の心得など持っていない。
頼りになるリーシャはいない。
逃げる、そう、逃げないと!
──殺される……!
冷や汗がだらりと地面に落ちた瞬間。
わたしは弾かれるように、暗い森の中へとかけだしていた。
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