第5話 だったら家行こうよ1

「じゃ、休みの間もちゃんと勉強しろよ」


 担任はそう言って号令をかけ、放課後が訪れた。


「うー……」


 生徒たちが次々に教室を出ていく中、善はゾンビのように机から身体を起こす。

 今日の授業は一段と大変だった。


 結局昨夜は翼の代替となる「ネタ」探しに夢中になってしまい、寝ようとした頃にはもう夜中の三時過ぎ。


 おかげで授業中に何度も居眠りをしてしまい、教師に散々怒られる羽目になった。中途半端に寝たせいで疲労もあまり取れていない。


 目がしらを押さえながら教室を出たところで、


「あ、いた! 善!」

「え? 翼……?」


 扉の向こうから幼馴染が手を振っている。

 昨日のこともあり少々ドキッ、としつつも、善は彼女の方に駆け寄った。


「どうした? たしか今日は部活オフだろ?」

「いやそうなんだけどさ……」


 翼と一緒に帰るのは陸上部の練習がある日という暗黙の了解があった。オフ日は別々に帰り休養に努めていたのだが……。


「翼くん、四組に用事でもあるの?」

「ねえ、今日こそ一緒にカフェ行こうよー」


 翼の後ろから、二人の女子が追いかけてきた。彼女たちは陶然たる面持ちで翼のことを見つめている。


(ああ、なるほど……翼のファンか)


 善は事情を察して頭を掻いた。

 どうやら以前リレーで無双して以降、翼にはこうした女子のファンができたようだった。彼女たちは翼のことを一様に「翼くん」と呼び、付きまとっているのだと言う。そんな愚痴を一緒に帰る際ちょくちょく聞かされていた。


 善はため息を吐いて、ファンの女子たちに向かって言った。


「ごめん。翼は用があって俺と帰る約束してたんだ。だから悪いけど、君たちは遠慮してもらえるかな?」


「はあ? なんでそんなこと言われなきゃいけないわけ?」

「てかあんた誰よ? ……もしかして翼くんの彼氏⁉」


 そこで初めて善の姿を認めた彼女たちは、鬼気迫る表情でこちらを睨んでくる。


「違うって。ただの幼馴染。あんまりしつこいと翼に嫌われるよ」


 善が言うと、彼女たちは「はっ」となって翼の方を向いた。


「うん。悪いけど、ちょっと迷惑」


 翼のその言葉に、女子たちは「ガーン!」と効果音が出そうなくらい、悲壮感たっぷりに膝を折った。


「翼、こっち!」

「え……う、うん!」


 そのままサラサラと砂になってしまいそうな彼女たちは放っておいて、善は翼の手を取りその場を離れる。


 その流れで、なんだかんだ二人はいつも通り一緒に帰ることになった。

 普段と違って時間がたっぷりあるためどこかで遊んでいこうという話になったのだが、


「駅周辺はマズくないか? 曲りなりにもあの女子たちには『用がある』って嘘ついちゃったわけだし。この付近で遊んでたら鉢合わせるかもしれない」

「確かに……でも遠出するほど時間があるわけじゃないんだよね」

「そうなんだよなぁ……」


 二人で「うーん」と首を捻っていると、不意に翼が声を上げた。


「あ! だったら善の家行こうよ。あたし久しぶりにワンピース読みたい」

「お、俺の家……?」


 急な提案に善は当惑してしまう。

 確かに翼は小学生の時、よく善の家に遊びに来ていた。ワンピースを貸して読ませていたのもその時だ。


 だけど今は二人とも高校生。あの頃とは考え方も、関係性も、身体つきも違っている。

 何より善にとっては、


(じょ、女子が俺の家に……!)


 と、初めて女子を家に招くというビッグイベントの襲来に動揺を隠せなかった。

 いや、昔から翼は昔から女子で、普通に善の家に来てはいたのだが、しかし。


「どうしたの? もしかして都合悪かった?」

「い、いや……今日は両親とも仕事だし、姉たちは最近事務所で寝泊まりしてるから……家には誰もいない」

「ならいいじゃん」


だからダメなんだよ! と、善は心の中で叫んだ。


(なんだこいつ、男の家だぞ? 誰もいないって言ってるんだぞ?)


 警戒心はないのだろうか、とも思うが、それはきっと善に対する信頼の現れだろう。この間まで善が翼のことを「女子」ではなく「幼馴染の友達」として見ていたように、翼もきっと善のことを「男子」としては見ていない。


 そう考えると、何だか昨日まで悶々としていたのがバカらしく思えてきた。


「……わかったよ。これから俺ん家行くか」

「お、やった!」


 善が言うと、翼は拳を振り上げて喜んだ。


 変わったところはいろいろあるが、翼の善を見る目は何も変わっていない。だったら自分も、同じように接してやればいいだけじゃないか。

 それに――


「あたしワンピースどこまで読んだっけなぁ……たしかルフィが――」


 きっと彼女のことだ。

 もう頭の中には、ワンピースのことしかないのだろう。



     *



「お邪魔しまーす、うわ懐かしー‼」

「先に部屋行ってて。俺飲み物持ってくから。麦茶でいい?」

「あ、うん。ありがとー。でも結構内装変わってるね」

「うちは家族揃って飽き性だから。ちょこちょこ部屋の感じまるっと変わるんだ」


 水沢家は駅からほど近い通りにある二階建ての一軒家だ。芸術家の父、ミュージシャンの母、ファッションデザイナーの姉二人と芸術分野に秀でた家族に囲まれ、生活はそれなりに裕福だった。


 ただその中に生まれた凡才な長男は肩身が狭いったらありゃしない。善は昔から音楽や美術など様々な分野にいっちょ噛みしてきたが、ついぞ目が出ることはなかった。


 この広い家も、善にとっては劣等感の象徴のようなものだ。住まわせていただきありがとうございます、そんな卑屈な思いと共に、毎日この家で寝食をしている。


「善の部屋はあんま変わってないね」

「まあね。俺はあんま部屋の内装とかこだわらないし」


 麦茶のグラスを持って善が自室に入ると、すでにベッドに背を預けくつろいでいる翼が目に入った。


「そんな足おっぴろげてたらパンツ見えるよ」

「残念でした。下にスパッツ履いてまーす」


 善の注意に、翼は勝ち誇ったようにスカートをめくって見せる。

 黒のインナーウェアが太ももの中腹から上を覆っている。だがそれでも、足の大部分が露出しているのは事実だ。


 スパッツから伸びる白い太ももはむっちりと健康的な肉付きをしている。本人は太くてコンプレックスと言っていたが……むしろそれくらいがちょうどいい、と善は眼福にあずかった気分だった。


「そんで、ワンピースだったよな。えーっと、確か翼に貸したのは……」


 と、善は本棚を漁っていると、横からジッと視線を感じた。


「な、なんだよ……」

「いや、えっちな本はどこに隠してんのかなーって思って。さっきベッドの下見たけどなかったから」

「そんなのないって! ていうかベッドの下捜索済みかよ⁉」


「だって男の子がそういうの隠すならベッドの下って相場が決まってるでしょ? だったらもう、本棚にノーガードで置いてあるとしか――」

「本棚にもないって! 俺の部屋にはそういう本一冊もないから!」


「ふーん。ほ・ん・と・う・に?」

「う……ああ!」

「うわ絶対嘘! 今ちょっと間あった! 幼馴染の目を誤魔化せると思うなよ!」

「おおいやめろって! 布団引きはがしたって出てこないって! 埃立つからマジでやめ……げっほげっほ!」


 意地でもエロ本を探そうとする翼。引き出しという引き出しを開け、押し入れの中をかき分け、クローゼットに目を光らせる。


 彼女の身体に触って強引に止めるのも抵抗があって、善はついに宝の在り処を白状した。


「パソコンだ! パソコンの中! 俺はそういう本は全部電子書籍で買うようにしてるんだよ!」

「おお、〝ひとつなぎの大秘宝〟はそこにあったか」


 翼は大仰な声をあげ、デスクの上に置かれた善のノートパソコンに視線を注いだ。

 彼女は早速パソコンの電源をつけて中を検めようとする。


 人のパソコン勝手につけるなよ……とは思いつつも、善はその様子を静観していた。慌てる必要はなかった。ホーム画面はパスワードでロックされているからだ。


「ちぇ~……なんだよ、善がどんな女の子に興味あるか見たかったのに」


 案の定翼はそこで立ち往生し、諦めの声を上げた。


(あぶない……何とか大事故は防げた)


 善はホッと息を吐いて、翼にワンピースのコミックスを渡す。


「はいよ。たぶん翼に貸してたところの続き、こっからだと思う」


 そんなちょっとした騒動を経て、ようやく翼はワンピースを読み始める。

 最初は座布団に座っていたのだが、やがて無遠慮にも善のベッドにダイブして、寝転がりながら読んでいた。


 たしかに彼女は昔もそうして善のベッドに寝転がって漫画を読んでいたが、今それをやられるのはかなり意味合いが変わってくる。

 今夜はあのベッドで寝るのか……と思うと、善は昨日発散した劣情がまたこみ上げてきそうになる。


 しばらくは静かな、落ち着いた時間が流れていた。

 翼は漫画を読んでいる。善もソシャゲのデイリーミッションを消化したり、今週のジャンプをもう一度読んだりしていたため、特に会話はない。


 たまに翼が「うおーカタクリつえー」とか、「サンジかっけー」とか呟いたり、作中の用語について解説を求めてくる程度。


 加えて昨夜の寝不足だ。

 善はいつの間にか、ローテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。


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