第56話

昨日はあんなに晴れていたのに今日の私は運から見放されたかのように、朝から土砂降りの雨が降っている。


でもありがとう。今日が来てくれた。昨日望んだ私の「明日」が来てくれた。


昨晩、身体は願いどおりちゃんと二人と別れて家に帰るまでもってくれた。家に帰ったあとのことはもうほとんど記憶にない。でも両親にもなにも知らせなかった。


ただ、血尿は昨日から今日にかけてずっと出続けている。


北野総合病院へ赴き、杉本先生に昨日今日の症状について具体的に話をした。


「詳しく症状を調べないとわかりませんが、腎機能に問題があると疑っていいでしょう」

「腎臓ですか・・・・・・」


膵臓より先に腎臓が壊されているのか。


「がんの転移の影響で、腎機能が低下していると考えられます。他の病気――例えば心臓を悪くしても、肝臓と腎臓に影響が出るかたは多いのですよ。それだけ重要な臓器です」


肝臓も腎臓も、沈黙の臓器と呼ばれていたっけ。私はぼんやりとそんなことを考える。


「すぐに入院して下さい」


また、杉本先生の目は語る。もう延命措置しかありません――。


「今日一日だけ。いえ、半日だけやりたいことがあります」

「そんなことを言っている場合では。もう歩くのもやっとのはずです」

「いいえ。まだ歩けます。私の足は頑張って頭からの指令を聞いてくれています。私の臓器は頑張って、まだ止まらずにいてくれます。先生、私はもうここで死ぬだけでしょう? それなら少しだけ猶予を頂けませんか。今日中に入院セットももってきますから」


杉本先生は渋々といった様子で頷いた。


病院を出ても雨は続いている。傘を持ち、杖をついたまま歩くのは結構骨が折れた。私はその足で病院の通りにある老舗のお菓子屋さんに行くと、クッキーを買った。


その袋をリュックに入れて、Cycleへ行く。


トシさんに挨拶をしておきたかったし、写真も見てみたかった。


「いらっしゃい」


カウンターの奥からトシさんが出てくる。


店は相変わらず落ち着く。土砂降りの雨のせいか客は誰もいない。


「腰、かけさせてもらってもいいですか。濡れちゃって」


「どうぞ。昨日は空が世話になったようで」


私は入り口付近のボックス席を借りることにして、タオルで濡れた箇所を拭く。


「ええ、空君とっても喜んでいました」

「今日はわざわざ、雨の中大変だったでしょう」


トシさんももう、私がコーヒーを飲めなくなったことは知っている。


「ホットミルクを頂けますか」


「かしこまりました」


リュックから素早くお菓子を取り出し、呼び止める。トシさんはすぐに私の側へ来た。


「これ、買ってきたのでどうぞ」

「なんです、これ」

「いえ、空君にとても迷惑をかけてしまったことがあって。お詫びにここへ来たときがあったのですけれどあの時菓子折のひとつでも持ってくればよかったってあとで後悔したんです。そのときのお礼じゃないですけど」


心残りはないようにしよう。懐かしい。サインバルタを飲んで酔っ払いみたいになったこと。


「そんな気を遣わんでもいいのですよ。ありがたく頂きますが」


眼鏡の奥の瞳が和らぐ。伝えよう、もうここには来られないこと。


「再入院が決まりました」


トシさんは固まる。そして言葉にも詰まったようだった。


「それは――いつですか」

「今日です」


ここへ来たのはこれまでのお礼とお詫びもあるけれど、別れの挨拶でもある。


「空は知っているんですか、その」

「まだです。千歳にも、空君にも知らせていません。でも真っ先にここへ来ちゃいました。空君から、写真を飾ったと聞かされて見てみたかったんです」

「どうぞ。いくらでも見ていって下さい」


私は杖を持ち立ち上がると、全体像を眺めた。杖の音が大きく反響する。


写真は高そうな額縁に納められて、うるさくない程度に高低差をつけて壁に飾られていた。


私たちが選んだ文化祭や新宿御苑の紅葉。江ノ島の海。初詣の写真。誕生日の写真。


他にも私の知らない景色。夏の青葉。銀色の冬景色。


四季をモチーフとしているのだ。額縁も季節にあったカラーに統一されている。その景色の写真の間に私や千歳の写真がある。この喫茶店とも溶け込んで、ちょっとした個展みたいだ。


空君はもう十分に才能を発揮している。これからどんどん伸びるのだろう。


「結構評判ですよ。といっても、まだ数える程度のお客様にしか見て頂けていませんが」


「これからどんどん評判があがっていくかもしれませんよ」


「どうでしょうか・・・・・・。そうですね、でも亜紀さんや千歳ちゃんの着物姿が美しいと言っていた人も何人かいらっしゃって、若い頃の話に花を咲かせる私より二回りくらい上の御客人もおります」


ホットミルクを目の前に差し出された。


あんな倒れる前の写真でも、見てくれる人はいるのだ。


年配のかたは着物を着る機会も今の時代より多かっただろう。

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