第45話
「そんなの信じられると思うかい」
「ねえ。同じような病気で苦しんでいる人もいるかもしれないけれど、私の場合は、うつの時のほうがもっともっと辛かったんだよ。心が麻痺してなにも感じられなくなっていたの。うつが酷いときはただ死ぬことだけが救いだった。死ぬことだけが光に思えていた。そんな心の地獄から、私は救い出されたの。だからお母さんも、お母さんを苛立たせるものから救われて欲しい。うつだったから笑うことがどれだけ大事かわかるの。お母さんには笑顔が足りないよ。にこにこしたお母さんでいて欲しい」
母は肩を震わせる。多分、私の今の心情を母が理解することはない。にこにこしてくれることもない。
「あんた最近まで幸せそうにしていたのに。結局幸せって長くは続かないものね」
幸せは、みんなが覚えていてくれる限りどこまでも続く。人間って、誰かが寄り添ってくれれば、理解しようとしてくれればそれだけで救われることもあるのだ。
「私はこの四ヶ月で生まれ変わって、全てのことに感謝しているの。死ぬっていう実感、まだないのだけれどね。でももう私のことなんて考えなくていい。お母さんのお腹から生まれてきたとはいえ、私とお母さんの道は違うのだから。一緒の屋根で違う道を生きていたというだけ。だからこれからは、お母さん自身が幸せになることを考えて」
みんな同じところにいるようで、同じ時間を過ごしているようで、どんなに親しくても、異なる道を歩んでいる。交わることはあっても結局は一人なのだ。
そしてどういう形であってもお別れは必ずやって来る。でも、泣いてくれる人がいるんだね。これまで気づきもしなかった。
泣かないで。私が死ぬからって泣かないで。泣いてくれる人がいるのはとても嬉しいけれど、私の場合はみんなより一足早くこの世を去るということになるだけだから。
「娘が死んで、幸せになれることなんて考えられるか」
「それはお母さんのよくない癖だよ。茶道でお弟子さんをとってもいいじゃない。私が死んでも自分の幸せを考えていいんだよ。ね? もっとたくさん話をしよう。私たち、全然会話らしい会話なんてしてこなかった。だから私が死ぬまでは毎日語ろうよ。それが娘からのお願い。お父さんとお母さんに、我儘かもしれないけれど娘からのお願いがいっぱいあるんだよ。小さい頃からいいたかったことがいっぱいあるの」
母は目を真っ赤にして私を見る。私は両親へのお願いをひとつずつ言った。
苛々せずに、笑って生きて欲しいこと。ちゃんと私のこんなことがあったよという出来事を聞いて欲しいこと。死んだら自分の人生を歩んで幸せになって欲しいこと。言葉遣いを直して欲しいこと。馬鹿女と言われて傷がついたこと。
すると母はようやく頷く。
「私たちは・・・・・・言葉が足りなかったね。あんたの話、ずっとちゃんと聞いてやれなくてごめんね。なんでお母さん、心に余裕がなくてこんなに言葉が悪くていつも苛々しているんだろうね・・・・・・」
口調が急に柔らかくなった。私の気持ちが届いたのかもしれない。
「本当だよ」
「ごめんね、私の苛々があんたを苦しめていたんだね・・・・・・」
もう、それはいい。お母さんが笑顔で生きてくれるなら満足。
私は壁時計を見る。正午前だ。
「あ、そろそろお昼だね。ご飯作ろうか」
「私の仕事を取る気かい?」
「またそんなことを言うの。いいじゃん別に」
私たちは笑った。母のガラケーには初詣に買ったときのお守りがつけられている。
台所に立つことを許されたので、私は簡単に焼きそばを作って皿に盛り、母の前に差し出す。
母は美味しそうな顔をして食べている。私が作る最後の料理かもしれない。
きっと、今の精神状態は、私より父や母のほうが辛いだろう。それは痛いほどよくわかる。
いつか言っていた、千歳の言葉が蘇る。
「自分の傷に鈍感なのはよくないわ」
本当だね。鈍感だったから重い病気になるまで気づかなかった。でも、鈍感なおかげでまだ食事も作れる。
母とはいろいろなことを語り合いながら昼食を食べた。三十六歳にして初めて、やっと小さい頃からの願いが叶ったような気もした。
残りの時間は両親と毎日話をしよう。ほら、楽しみはまだある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます