第44話

私はテーブルを挟んで母の真正面に座った。


「そうだね。ずっと親孝行をしてこられなかったね。そうして今も。親より先に死んでしまうことになってごめんね。私はずっと、いい娘にはなれなかったね」


母の両目が突然見開かれみるみる赤くなっていく。


「それを言うなら私だって! 私だってあんたのいい母親にはなれなかったよ」


今にも立ち上がりそうな勢い。そうか。母はいい母親になれているか、ずっと不安だったんだ。


「小学生の頃、遠足に行くときにはちゃんとお弁当を作ってくれたし、中学の時も。ご飯だって毎日きちんと三食出してくれる。それってとってもありがたいことだよ」


「それは私の仕事だからよ! わかっていたさ。ずっと苛々していてそれが態度に出ていたこと。あんたがうつになったのは、私のせいなんじゃないかって思った。だから茶道をやめて家でずっと、一生懸命栄養を考えてご飯を作っていた。私の育て方や愛情が足りていなかったんだってずっと思っていたよ。ひょっとしたら家庭に向かない人間なんじゃないかって」


母は母なりに、不器用な愛情を注いでくれていたのだ。


「そんなこと思っていてくれていたんだ。お母さんは家庭に向いているよ。だって家事をきっちりこなしているもの。私、ちゃんと言っていなかったね。ありがとう。私を生んでくれて、育ててくれてどうもありがとう。苛々しているのはいつでも、ちょっと怖いけれど」


「これはもう私の性格!」


目尻には涙が溜まっている。


「じゃあ、娘からのお願い。苛々しているの、直してくれる? 心穏やかに生きて」

「穏やかな心でなんていられるか! 私たち、娘を亡くしてこれからどうすればいいんだ」


溜まった涙が頬を伝う。母は近くにあったタオルで顔を覆った。


「大丈夫だよ。お母さんにはお母さんの、お父さんにはお父さんの、私には私の人生がある。お母さんは私が死んでも、自分の人生を歩んでいけばいいんだよ」


言いながら思った。母は自分の人生を犠牲にしつつ生きていたのだ。家族のために。


家事が使命というのは、私も母も、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。


私はそっと、母を抱きしめた。


「ごめんね・・・・・・」


母を自分から抱きしめるのは初めて。十センチ差はこんなに小さかったっけと改めて思う。


呻き声が聞こえる。母を励ますことはできないけれど、正直な気持ちなら言える。


「私はいなくならないよ」


母は私から離れるとタオルから顔を外し、赤く腫らした目で見つめる。


千歳と同じことをした。私の手を母の胸に押し当てる。


「お父さんとお母さんのここに、私はずっと生き続けるから」


母は私の手をパシッと払いのけた。内心で苦笑する。


友達と親では、やはり立場も見方も異なる。


「残されるものはそんな形じゃ納得できないんだよ。あんたの姿形がなくなって、骨を見るのは私たちだ。墓に入れるのは私たちだ。それでいなくならないって言われても納得なんかできるわけがない。あんたがいなくなることより、あんたにはどんな形でもいいから生きていて欲しいんだ」 


母が泣くのは心が痛い。


「私は生きているよ。例の友達に出会ってたくさんのものを貰えたよ。死んでいた心が生き返ったの。身体は死に向かっているけれど、心は生きているんだよ。今だって、いっぱいいっぱい光を感じている」



母は再び黙ってタオルで目元を覆う。母にとっては働かない、結婚しない娘でも、死ぬより生きていたほうがいいのだ。ありがとう。でも、こればかりはもう仕方のないことだ。


「私は生まれる前に戻るだけ。自然と一体になって、そこへ還るだけ。だからもし私がいなくなったら感じ取って。時折吹く風の中に私がいるっていうことを。あるいは艶めいた草の中に、私がいるかもしれないっていうこと。きっとどこにだって私はいるから」


人って死んだらどこへ行くのだろう。生きている人は誰もわからない未知で無限大の領域。


でも、そこに思いを馳せてみる。死んだあとは肉体から解放されて自由に空を飛び回り、大気や自然と一体になって、人々を癒やしていくことを想像してみる。

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