第29話
「こんなに綺麗なものがたくさんあるんだって、今まで気づかなかったよ」
黒く塗りつぶされていた感情も思考も、今では煌めきを伴って私の中から少しずつ呼び覚まされている。
「よくなってきているんじゃないですか、うつ」
言われてみると、死にたいという思いが私の心の底から消え去っていた。
心の中の棘が抜けて、すっきりしている。死にたいと思う気持ちがないとなんだかとても前向きになれる。
「うん。とってもよくなっていると思う」
「そういえば俺、亜紀さんのLINEアドレス知りません。交換しませんか」
「いいよ」
お互いスマホを揺らして、アドレスの交換をする。
「まだまだ、いろいろなことをやりましょう。そうね、クリスマスに初詣に。また桜を見にここへ来るのもいいわね」
言ったあとで、千歳はくしゃみを何回かしていた。
「大丈夫? まだ風邪、治りきっていないんじゃない」
「そうね、治りきってはいないけれど、どうしても今日、みんなで紅葉を見たかったの」
「どうして」
「来週から雨なんですって。だからもう散っちゃう」
そうなのか。天気予報は見ていなかった。
「桜の季節はまた見所が変わりそうです。春も来られたら来ましょう」
空君は言って全てを食べ終えたお弁当箱をどうすればいいのかわからない様子で持っている。
「洗って返したほうがいいでしょうか」
上目遣いで言う。
「帰ったら洗うよ。千歳も」
手を伸ばしてお弁当箱を回収し、ふと考える。高校生の男の子って食べ盛りじゃないのだろうか。
兄弟もいないし、女子校だと男子との接触がなかったからその成長を見ていないのだけれど、思春期の男の子ってどのくらい食べるのだろう。
「お弁当足りた?」
「大丈夫です」
「いつもどのくらい食べているの」
「白米どんぶりで食べて、学校でパン五つくらい買っていますけど、今日はお腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
流石思春期男子。もう少し多めに作ればよかった。
ブルーシートを片づけ、移動して日本庭園を見ることにした。こちらも木々は色づいている。そして静かだ。スマホで歴史を調べてみる。
新宿御苑のルーツは、一五九〇年かららしい。約四百年も受け継がれてきたのだと思うと、なんだか感慨深い。色々な人がこの広大な敷地を大切にしてきて、そうして今、こうやって一般市民に公開されているのだ。
四百年前、ここはどんな様子だったのだろう。侍達が歩いていたなんて想像もつかない。
「空君が好きなのは日本史? 世界史?」
「俺は世界史を選択していますね。日本史は少し苦手で」
「私も日本史は苦手」
もう日本史なんてすっかり忘れている。でも、最近は苦手意識も薄れつつある。
日本を生きた先祖達が、私たちの普段歩いている場所を何百年、何千年も前に歩いていたのだと考えると、その歴史の重さが興味深くなってくる。
千歳がまたくしゃみをして、寒そうにしていた。震えている。
私は念のために用意していたスカーフをバッグから出して千歳の首に巻く。
「ありがとう・・・・・・」
大切そうにスカーフに手を当てている。
「千歳さん、本当に大丈夫ですか」
空君が心配そうに言う。顔色がお弁当を食べていたときより悪くなっている。
「そうね、寒気がするわ。ぶり返したら大変だし、私はそろそろ帰ろうかしら」
無理に今日ここへ来なくてもよかったのに。今日ここに来たかった本当の理由って別のところにあるのではないだろうか。占いとか。あるいはなにか――千歳の裏に隠されたなにか。
考えすぎかな。
「じゃあ俺たちも帰りましょうか」
時計を見ると二時半過ぎだった。
「そうだね。体温めてよく休んだほうがいいよ」
「ありがとう。でも今日は、亜紀ちゃんのお弁当を食べられてよかった」
「そんなことはいいから、帰ろ帰ろ」
言ってふと、どこから来たのかわからなくなっていた。スマホでマップを見ても、受付で貰った地図を見ても、帰りかたがわからない。まずい。
よくなったとはいえ、やっぱり脳は変形しているのかもしれない。空君に案内して貰いながらなんとか新宿御苑の外を出ることができた。一人で来ていたら帰ることができなかったかもしれない。
途中まで二人と一緒に地元まで帰ると、もう四時近くになっていた。
日はあっという間に沈んでいく。
寒くなってきたので、千歳と神社で会うことはなくなっていた。
千歳は家庭教師と占いの仕事は再会しているものの、風邪をぶり返してしまったらしい。
私は一人で神社に通い、神様に挨拶をして帰る日々を続けた。そうして帰ったあとも、なるべく外へ出るようにした。
太陽は人の心身を回復させる力を持っているのだと新宿御苑に行って以来改めて思う。
これまでは神社へ行って寝るだけだった日々にも、新宿御苑へ行った日から変化が起きている。
体力はない。が、心に栄養を与えていこうと思った。
少しずつ足を伸ばして、一人暮らしをしていたときに時々通り過ぎていた広い公園に行って再び紅葉を見たり、プラネタリウムを鑑賞したり、クリスマスのイルミネーションを見に行ったり、実家から二十分ほど歩いたところにあるショッピングモール、「エスリア」の人工芝生のある広場に座り日に当たって人々が生命力を持って動いている姿を観察したりしていた。
都会だから夜に星はあまり見えないけれど、何気ない風景にも心を動かされるようになってきている。
堅く閉ざされていた心の隙間に光が差し込み、その隙間がどんどん開いていって、大量に流れ込んできた暖かさが私の心をほぐしていく。
感情をなくしていたことによって、私は人間性も失っていたのかもしれない。勤めていたときは機械のように動いていた。
でも、今の人工知能だって場合によっては感性がある。絵や小説を書けてしまうくらいなのだから。私って、人工知能より劣っていたのだろうか。
目に映る人々はどんな人生を送っているのだろう。
星々もまた何億光年と生き続けている。植物の艶めきも、とても綺麗だ。
この世は光と生命と躍動感に満ちあふれているということが今やっと実感できている。
私は二十代の時どれだけの命を犠牲にしながら、死にたい死にたいと叫んでいたのだろう。
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