第26話
十一月二十六日
LINEで千歳の緩やかな回復を知らせて貰いながら、私は一人で毎日のように神社へ通っていた。
いつの間にか、心が落ち着く場所になっていたのだ。毎日通っているとたまに拝殿奥で神主さんが人々にご祈祷をしている時もあった。心願成就か健康祈願か。
それぞれが様々な悩みや願い事を抱えてここへ来ている。
目に見えないものの力があるのって不思議。そして素敵。神様はなにを考えて、人々の思いに応えて下さるのだろうか。
神社の銀杏の木も大分黄色くなっており、葉が落ち始めている。
一時間くらい太陽の光を浴びて、血液検査をした病院へ赴き、待合室に座る。
五歳くらいの男の子とその母親がいた。
「このまえのえんそく、すっごくたのしかった」
待合室でマスクをした母親に、男の子がそんなことを言っている。
母親は咳き込みながらも優しい目をして男の子の話を聞いている。だが、少し苦しそうだ。
対して子供は元気だ。
母親は風邪だとしても、子供のほうはなんでいるのだろう。インフルエンザの予防接種か、それとも家で一人にさせないために連れてきたのか。状況はよくわからなかったが、男の子は本当に楽しそうに遠足の話を続けている。
「おべんとうもね、すごくおいしかったよ。またつくって」
「もちろん。また作るね」
「やったぁ。ねえ、こんどパパとママといっしょにおべんとうもってどこかいこうよ」
「お母さんの風邪が治ったらね」
ふと、結婚できないことに気持ちが少し揺らめく。仕方がない。私には、今を楽しむことが大切なのだ。そうだ、新宿御苑にはお弁当を作って持って行こう。
千歳や空君の日頃のお礼もかねて。どんなメニューがいいかな。
頭の中はレシピや食べ物のことでいっぱいになる。
そろそろ晩ご飯も自分で作れるのではないだろうか。今日は母にそう言ってみよう。
親子が呼ばれて、十分くらい経過したあと、診察室から出てきた。次に私の名前を呼ばれたので診察室の中へ入る。顔馴染みの先生を見てなんだかほっとした。
「血液検査の結果、出ていますよ」
回転椅子に腰をかける。先生はどっしりと腰を構えて検査結果の用紙を眺めていた。
「様子見なところがありますけど、まあ、大丈夫でしょう。あなたまだ若いし」
「若い・・・・・・ですか」
そんなことを口走ってしまった。すると医師は笑った。
「あなたの二倍の年齢の患者さんをよく診ていますからね」
そうか。高齢化も実感はあまりないけれど、病院には年配のかたもたくさん来るのだろう。
「それで一体、どの数値が高いのでしょう」
「アミラーゼ、リパーゼ。でも許容範囲内です」
「はぁ・・・・・・」
どの数値と聞いておきながら、なんの数値か全くわからない。
「身内に糖尿のかたはいますか。少し血糖値が高いですね」
「血糖値が?」
「基準値は超えていませんけれど、ギリギリなのでここも様子見です」
あまり食べていないのに糖尿の気配でもあるのだろうか。
うどんに蕎麦におにぎりの日々だから、炭水化物を摂りすぎていたのかなぁ。
「身内に糖尿はいません。炭水化物も過剰に摂取しているつもりはないのですが」
「喫煙や飲酒の習慣は」
「煙草も吸わないですし、お酒もほとんど飲みません」
「ならま、大丈夫でしょう。安心していいですよ」
その一言に安堵する。
「ありがとうございました」
血液検査の報告書を貰って帰ることにした。様子見、というのが不安になったが医師が大丈夫というのだからまあ平気なのだろう。
千歳も気にしてくれていたので、帰ってから検査結果をLINEで伝える。よかった。そんな返事が来る。
千歳の占いが外れたことになるのだろうか。スマホを机に置いてリビングへ行くと台所の掃除をしていた母に言った。
「今日の夕飯、私が作ろうか」
「え?」
相変わらずの無愛想な顔だ。笑って欲しいんだけどな。
「え?」
私は訊ね返した。
「あんた、私の仕事を取る気なの」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。ただ作れそうだったから」
母は家事が好きなのだ。私が台所に立つと、よく叱られた。それでも料理を覚えるためと言えば引き下がることもあったが。
母にとって、家事をすることは既に仕事を通り越して使命のように感じている節があるから、家は古くてもいつもピカピカだ。私がだらしなくしていると酷く怒る。
「いい、私が作る。作れる元気があるなら仕事でも探しなさい。あんた最近顔色いいし」
「ああ、なら晩ご飯はもう胃に優しいものじゃなくても大丈夫だよ」
血糖値のことは言わないでおこう。また汚い言葉でガヤガヤと言われるのは嫌だ。仕事のこともスルーした。時期も時期だし、仕事探しは来年にしよう。
三月くらいが事務職の求人のピークだ。その頃にはまた寛解しているといい。それとも働き出したら、また忙しくてうつが再発するのかな。
この病とはもう、一生付き合っていかなければならないのかもしれない。
「十二月一日には新宿御苑へ行くから」
「新宿御苑?」
「友達と紅葉を見に」
「あんたいつの間に友達なんて作っていたの。一人もいないものだと思っていたわ」
「つい最近できたんだよ。前にも言ったじゃん」
「そうだっけ」
以前に話したのに、まるで、なにひとつ聞いていなかったのだなと思う。
「お弁当持って行くから作らせて」
「いいけど、本当に遊んでばっかり!」
母はいきなり怒鳴って機嫌が悪そうに掃除を再開させた。怒鳴り声に私の心は萎縮する。
家事が好きなのになんでいつも機嫌が悪いのだろう。
母の心ってどうすれば満たされるのだろう。きっとなにかが原因で満たされていない日々を送っている。夫婦仲は悪くないから、やっぱり私がふがいないせいなのだろうか。
それとも目の前にある幸せが当たり前すぎて幸せと思えていないのだろうか。
機嫌の悪い母に少し心が沈んでいきそうになるのを感じて自室へ行った。
必要なのは気持ちの切り替え。
うつになりやすい人はその切り替えが下手な人もいる。私もそうだ。
部屋を見渡す。あるのは机、クローゼット、和箪笥、ベッド、キャビネット、本棚。思い切って、徹底的な掃除をすることにした。
いらないもの、うつのきっかけになったもの、見ると気分が悪くなるもの、嫌なことを思い出すものは全部捨てよう。
窓を開けると、ゴミ袋を用意し引き出しを片っ端から開けて、いらないものを全て捨てることにした。キャビネットの上にある小物。安い装飾品。
レターセット・・・・・・もう随分昔のものだが柄がとてもお気に入りなので、これだけは捨てられない。
それから小学生の文集、中学高校の卒業アルバム。読んでいない本。中学の時仲のよかった子が引っ越して文通をしていたが今ではもうやりとりをしていない。
そんな手紙もビリビリに破いて捨てる。年賀状も。当時は大事だと思えたものも、今では全部ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミの中で生きているってこういうことだったのかな。
整理整頓はいつもしていたから一見部屋は片付いて見えていたけれど、それは見えるところだけで、案外ゴミはあった。
途中でスタミナ切れを起こした。一日では片付きそうになかったので、三日をかけて引き出しの中や本棚を綺麗にし、窓枠やエアコンの上の方の埃も取った。少し早めの大掃除だ。
三十五年間蓄積されたいろいろなものがなくなると、体力は相変わらず削られていくものの、気分も大分さっぱりした。
ほぼなにもなくなった部屋で、新宿御苑に行く日まで寝て過ごす。
寝てばっかりじゃん、私。
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