第23話
十一月月十二日
疲れていたのかよく眠れた。目覚めの悪さもほとんどない。
不思議と目覚ましをかけなくても七時に目が覚めるようになった。
千歳が八時に待ち合わせの時間を毎日作ってくれなかったら今でも二十代の時のように、昼過ぎまで眠っている生活を送っていたかもしれない。最近は朝が辛くない。
神社へ行ってみると、千歳がいない。流石に疲れて寝坊でもしたかな。そう思うが約束の時間を二十分ほど経過しても来ないので心配になった。
スマホを見ると、ラインが七時半に入っていた。
『ごめん、熱出しちゃったから、今日はお休みさせて頂く』
十一月の海風に当たりすぎて冷えてしまったのかもしれない。
『大丈夫? 私にできることある?』
『平気。病院に行って寝ていれば治るから』
『ごめんね。海に付き合わせて』
『謝るのはNG。亜紀ちゃんは悪いことしていないのだから気にしないで』
空君の家庭教師は大丈夫なのかな。空君の勉強、私も見られたらよかったのに。
高校の時に習ったことなんて、数学も歴史も物理も全て忘れている。一時はうつの重症化により漢字さえ読めなくなっていたときがあった。
だから現代国語も古文も自信がない。なにもできない。なにも持っていない。
無力さを痛感しながら静かにお参りをして一旦帰ると、保険証を持って実家から徒歩一分程度のところにある小さな病院に入り、飛び込みで血液検査をして貰った。
風邪をひくと通うのはいつもここなのだ。比較的空いているし、医師も人当たりがいい。
結果は来週ということになったので、家に帰るとそのまま布団に入って再び眠った。
母が苛立ち愚痴を言いに来たが、心身を癒すために私はベッドから動かなかった。
自分を責めるな。
文化祭の時のバンドの歌詞を思い出す。
誰かに責められて、自分を責めても状況が好転するわけじゃない。
千歳、大丈夫かな。熱、早く下がるといいな。
私も。千歳みたいに少しずつ幸せを探していこう。いや、もう幸せは貰っている。
十一月十七日
千歳とは会えずに五日が経った。
本格的な風邪を引いてしまって、治すまでに時間がかかりそうだということだった。
なんとなくつまらないな、と思いつつ花守神社で千歳の健康を願って帰ったあと、父の運転する車に乗って東京の中心にあるお寺へ向かう。
狭い駐車場に車を止めると、後部座席から降りる。線香の香りが漂っていた。
墓地には重々しい空気が流れており、カラスが頭上を飛んでいる。気が滅入りそうだ。
ん? でもこれはいい兆候なのかもしれない。
昔は暗いところを必然的に好んでいたくらいだったから、季節の行事にあわせて墓参りだけは喜んで行っていた。朝の光を激しく嫌い夜型になって、墓地も好むという吸血鬼のような生活を送っていたのだ。
「あんたは墓を磨いてちょうだい。私はお父さんと花とお酒を買ってくるから」
頷いて手桶に水を汲み、柄杓とたわしを持って狭い石畳の通路を歩く。
三ヶ月に一回くらい母が来ているらしいが、既に墓はカラスの糞や落ち葉がついて汚れていた。私は墓跡に向かって微笑む。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お掃除させて頂くね」
呟き、たわしに水をつけて掃除を始めた。祖父も祖母も、どんな人だったのだろう。
両親からはそんな話を聞いたことがないし、祖父は私が生まれる数ヶ月前に亡くなっているから、結局どちらの記憶もない。
祖父は前立腺がんで発見当時は末期でいつ死んでもおかしくないと言われていたのに、それから六年も生きた、ということだけ聞かされている。
祖母には赤ちゃんの頃、抱いて貰ったことくらいはあるのかもしれない。私はよく泣く子だったのか、それとも泣かずに笑ってばかりいるような子だったのか。
きっと前者だろうな。後者だったら、多分うつになんてならない。
一度ざっと掃除をして、水を汲み換えに行き、そうしてまた徹底的に墓石を磨きあげる。母が戻ってくる前までに綺麗にしておかないと、また苛々が始まるのだ。
だから急いで磨かなきゃ。ああ、私らしくと思っているのに、母の影響をまだ受けている。
二十代の頃はここへ来るたびいつも祈っていた。おじいちゃん、おばあちゃん、私はもう生きたくありません。だからお願い、連れて行って下さい。私も同じところへ行かせて下さい、と。
死ぬことしか考えられなくなっていたから、毎回毎回そんなことを必死に願っていた。でも、それが叶うことはなかった。叶わないことに酷く絶望していたこともある。
「お、綺麗になっているじゃないか」
父の声が聞こえ振り返る。いつもは腫れ物に触るように接してくる父もなぜか墓参りのときだけは人が変わったように機嫌がよくなる。自分の両親の墓前に立てるからかもしれない。
「大体終わったよ」
母の様子を子供のようにうかがう。母は満足そうに墓石を眺めている。もう一度水を汲みに行って戻ってくると、お墓の上から柄杓で水をかける。両親も同じことをしたあとで、花と線香を飾り、父はお酒をお墓の上から流していく。
祖父がお酒好きだったのだそうだ。墓石を流れていくお酒は、太陽に反射して光っていた。
ひととおりの作業を終えると、家族全員で手をあわせた。
おじいちゃんとおばあちゃんのおかげで私は生まれて、今こうして生きています。どうもありがとうございます。
ひとりでに感謝の言葉が出てきたことに自分でも驚く。二十代の頃とは大違いだ。
あれほど連れて行ってくれ、私はなぜ生まれてきたのだと願ったあの気持ちの重さが今では全然ない。
「父ちゃん、母ちゃん、またな」
父はそう言って来た道を引き返す。私も母もそれに倣った。
お寺を出ると、お昼になりかけの時間になったので三人で回転寿司屋へ寄った。こんなところに来るのも何年ぶりだろうか。寿司がぐるぐると回っている。
「亜紀は中学生以来か。全然家族で来ていなかったもんな」
父は案内されたボックス席に座るといつになく饒舌になって、母と出会ったときのことなどを懐かしそうに話し始めていた。
馴れ初めはもう聞き飽きているのだが、母も機嫌がいい。私が母のお腹に入っていたときに祖父が亡くなったから、葬儀と出産で苦労とストレスが溜まった結果いつも苛々しているのかもしれない。きっと、母の苛々はカルシウムや鉄分が足りないせいじゃなくて、私のせいなんだ。
でも今日は父が若い頃のことを話しているせいか母も穏やか。それともこうして寿司屋に来ているから、息抜きになっているのだろうか。なんにせよ、私も心安らかにしていられるから、それが嬉しい。
機械で注文したお寿司が、レーンに乗って運ばれてくる。この前江ノ島で海の幸を食べられなかったから、今日偶然、食べられることになったのかもしれない。この偶然はミラクルだ。
そんなことを考えると少し楽しくなった。こうしてお寿司を食べられることも今まで生きてきたが故の奇跡なのかもしれない。
「今日は私が奢ろうか・・・・・・」
せめてもの孝行のつもりで行ってみる。父は乗り気だったが母がぴしゃりと言った。
「あんた働いていないじゃないの。働かない人のお金で奢って貰ったって嬉しくない」
「働いていたときの貯金くらいまだあるよ」
「そんなこと、一人暮らしをさせていたときのお金を全部返してから言いなさい」
ぐうの音も出ない。
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