第22話
心臓の悪い人の症状や精神的負担はどれだけ深刻なのだろう。
自分の心臓は当たり前のように健康で正常に動いているから考えたこともなかった。
心臓がただ正常に動いているということも、当たり前と思ってはいけないのかもしれない。
「でね、日本へ戻ったら二人で海へ行こうねっていう約束をしたの。五歳だったから今から思えばもちろん二人で行けるわけもないのだけれど、西海岸の海を見ていたら気が大きくなってどこまでも行けるような気がして」
空君はこうした話を知っているのか知らないのか、黙ったまま深刻そうな表情で耳を傾けている。
「それでもう一つ約束をしていて」
「どんな」
「なんだろう。病気があって入院している子ってどこか悟りがあるのよね。他の元気な子よりも達観してしまう部分があるの。だから、もしどちらかが死んだら、自分の分まで幸せに生きてねって。指切りげんまんもしたかな」
病になるって大変だ。それは精神疾患も身体の病気も変わらない。
「それで、その子は」
「執刀する先生は名医と聞いていたし、治るとお互い信じていた。でも、頭の片隅にはもしかしたら、っていう気持ちもあったのだと思う。私もそうだったし。それで、その子は手術中にもっと酷い別の病気が見つかって、そのときには手遅れだったらしいの・・・・・・。いくらアメリカのほうが進んでいたとはいえ、今ほどMRIもエコーも鮮明じゃない時代だし。その子は手術中に亡くなった。小春ちゃんっていう、ツインテールをしていた可愛い女の子だった」
千歳からはいつもの笑顔が消えていた。
亡くなった子を何度も見てきた。
そんなトシさんの言葉を思い出す。
四歳、五歳でそうした現場を見るのは残酷だ。
直接死を見ることはなくても、子供というのは勘がいい。同じ病室の空気に触れていれば、誰かが戻ってこなくてなにかを感じ取ることもあるだろうし、誰かから亡くなったという話を聞いたりすることもあったのかもしれない。
「亡くなったとアメリカ人の看護師さんから聞かされて、本音、言葉はよくわからなかったけど、そういうのってなぜか伝わって。その子のお母さんは半狂乱になっていて、私も幼心にとっても衝撃を受けたのをよく覚えているわ。今でもあの時のショックをよく思い出すの」
本当にボキャブラリーの少なくなった私はなにを言っていいのかわからず、ただ頷く。
「私は手術をして助かった。神様って不公平だって思って毎日泣いていたの。でも一週間くらいずっと泣いていたら小春ちゃんが連続して夢に出てきて笑顔で言うのよ。『泣かないで。約束したでしょ。私は天国へ行けるから大丈夫、でも千歳ちゃんは生きていられるから私の分まで幸せになってね』って」
「それで千歳は」
「あの夢は私の深層心理って捉えることもできるけれど、そう思ったら小春ちゃんに申し訳ないから本当に夢に出てきてくれたんだって今でも思うようにしているの。それでね、夢を見たあとから泣くのをやめて、どんな小さなことでも幸せを探して生きていこうって思ったの。人より二倍幸せになろうって」
千歳は立ち上がった。大きく風が吹いて長いストレートの髪をなびかせる。
そうして振り返った笑顔は、輝きに満ちていた。
「今でもあの子に生かされているような気がして。明るくしていなきゃって思った。私は私一人の人生じゃない、大勢の人に助けられたし二人で生きているんだって思うから、私だけじゃなく誰かのために生きてみようって。でも男性とは縁が遠くて・・・・・・心臓のことを話すと離れていく人が何人かいるのも事実なの」
今の千歳を形作っているのは、小春ちゃんの影響なのだ。亡くなった小春ちゃんの分まで幸せに生きないと、申し訳が立たないのだろう。
二倍の幸せ。もう千歳は十分に感じてきたはずだ。そしてこれからも感じていくのだろう。
小春ちゃんの人生も背負っている分、誰かのためになにかしたいと思っている部分もあるのかもしれない。だから私のような人間にも根気強く付き合ってくれるのだ。
「小さなことに幸せを感じられるのってとっても大切なことだと思う。私、千歳が生きていてくれてよかった。千歳が生きてくれなかったら、小春ちゃんの分まで生きていてくれなかったら私もきっと死んでいた。ありがとう。本当に・・・・・・」
あ、五回目のありがとうだ。そう言ってまたいつかのように私の目の前で屈み込む。
「次は紅葉でも見にいく? 私は亜紀ちゃんや空君と一緒に、巡る四季を見てみたい」
「いいね、紅葉」
「どこがいい?」
以前ネットで話題になっていた。誰が撮ったのかわからない新宿御苑のツイッターの写真を見たことがあるのを思い出した。なにも感じられなくても少しだけ心が動いた。真っ赤な落ち葉の絨毯を歩いてみたいと思った。
「新宿御苑・・・・・・」
「お、近いしいいですね。俺も行きたいです。どちらかというと、写真を撮りに」
空君が手を挙げる。来年受験だから今年が目一杯遊べるチャンスなのかもしれない。
「友達とは遊びに行かないの」
「友達とももちろん遊びに行っていますよ。でも、年上の人の考えかたっていうのはとても勉強になるんです。親は滅多に家に帰ってこないから参考にならないし。同年代とは違う価値観も学んでみたくて」
「しっかりしているね」
空君は私なんかよりも遙かに大人なのかもしれない。
「そうでもないですよ。悩みはつきません」
空君はスマホの時計を見て立ち上がるとズボンをはたいて砂をとった。
「三時近いですが、これからどうしますか」
二人は私を見つめた。どうやら体調を気遣ってくれているようだ。まだ海を見ていたいけれど、墓参りもある。そして家に帰る頃には五時近くになる。文化祭の時のように、一日遊んだだけで一週間は寝込む羽目になるから、十七日のために休んでおきたい。
「ごめん。もう帰ることにする」
「じゃあ、帰ろう」
「明日、神社はどうする」
私は訊ねてみる。
「行けたら行くわね」
「じゃあ私も。行けなかったら連絡する」
海に背を向け、歩き出した。
「亜紀さん、初めて会ったときよりちょっと痩せましたか」
空君が不意に言った。そして慌てる。
「すみません、こういうのセクハラになりますか」
気遣う空君が可愛らしい。
「ううん、大丈夫。でも痩せた・・・・・・かな?」
何ヶ月も体重計に乗っていないから変動がわからないが、言われてみると確かに少し痩せたような気もする。履いているロングスカートが緩い。緩い、ということさえ言われるまでまるで気づかなかった。
鍋にうどんに、蕎麦に雑炊。会社を辞めてからそうしたものしか食べていない。
朝はパン二枚とサラダのみ、昼はおにぎり一個だ。間食もしていない。だから余計に体力がなくなっているのかもしれない。
「そうだ、病院行った?」
一瞬何のことだろうかと思い、そして初対面で占って貰ったときに健康がどうのと言われていたことを思い出す。すっかり忘れていた。
というより死んでもいいやとあの時思っていたから、頭の隅に引っかかっていても放置していた。今も別に行きたくない。でも、千歳に心配をかけたくないから行こうかな。
「とりあえず、体力ある日に行ってみようかな」
「そうしたほうがいいわ」
いつ行こう。そんなことを考えつつ、家族のお土産に羊羹を買うと、帰りの電車の中でぐったりとしていた。
沈んでいく夕日は、街の景色に灯りをともすけれどやはり寂しかった。
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