第21話
イルカショーは満員だったので断念し、水族館を出て近くの喫茶店で軽食をとる。
海鮮丼でも食べようかという話になったが、空君の経済事情で喫茶店となった。
頼んだコーヒーの味はCycleとは異なり、渋みが強く濃い。
「そういえばトシさんのお店ってなんで『Cycle』っていうの」
私は不思議に思って訊ねてみた。
「春夏秋冬、人々が循環しながらまわりまわって末永くお店が続きますようにという意味だとおじいちゃんから聞きました」
「そんな深い意味があるんだ。半世紀も続いているのだからすごいよね」
「奇跡に近いですよ。隣に有名なホテルがあるし、潰れていく喫茶店も多いというのに」
空君は中学に入ったあたりから、喫茶店を巡るのも趣味のひとつになっていて、いろいろな喫茶店を見つけてはコーヒーを味わっているらしい。
だが、見つけたお気に入りの店は、三年ほどで半分は潰れてしまったそうだ。
「空君は大学を卒業したらあのお店を継ぐの」
更に訊ねる。
「まだ決めていません。ただ、それだけじゃ生活は成り立たないだろうし・・・・・・」
「大学に入れたとして卒業後はどうしたい?」
今度は千歳が訊いた。
「写真家になれたら、喫茶店経営の傍ら食べていけるかなって思うのですが、写真は趣味でやったほうがいいのかなとか。まだ大学の卒業後のことまでは考えていなくて。でも、コンテストには出してみようかなと思うんです」
「コンテストの話、神戸さんもしていなかったっけ」
私はふと、セピア色の海の写真を思い出した。
「はい。写真部のみんなで色々出してみようっていう話になっていまして。でもそれでどうなるかと言われたらわかりませんし」
「まあ、高校生じゃまだ五、六年先のことなんて考えられないわよね」
千歳は組んだ両手に顎を乗せた。
「そうなんですよ。本当に漠然としていて」
「将来の夢は写真家なのかな」
私は首を傾げる。
「なれたらいいなと思うだけで。まだその辺は自分の中で固まりきっていないんですよ」
「ゆっくり探していけばいいわ。勉強なら私が教えるし。進学したらどんな出会いが待っているかわからないもの」
空君は未来に思いを馳せているのか、笑顔になった。
「そうですね。将来の不安もあるけど楽しみでもあります。他に夢中になれることができて写真なんてどうでもいいや、なんて思える未来もあるのかもしれませんし、普通に写真とは無縁のところに就職するのかもしれませんし」
夢があって、未来に希望が持てるのは素敵なことだ。
私が十七の時は既に、進路なんて考えられる思考状態ではなかった。どこでもいいからとりあえず短大の二年か大学の四年間で学生という肩書きをもらい時間をとって、うつを治す、といったことしか考えられなかった。
あの頃健全な思考回路と心を持っていたらどんなによかっただろう。まあ、私は私の道を生きるしかないのだ。
「そろそろ出ますか」
パスタを食べ、コーヒーを飲み終えた空君が言った。こういうところはどこでも値が張る。別会計にすると空君は苦虫を潰したような顔をしながら自分の食べた分のお金を支払っていた。奢ればよかったかな、と思うけれどこれも空君の社会勉強だ。
喫茶店を出て水族館まで戻り、ゆっくりと裏手の海へ出る。
すぐに波の音が聞こえてきた。
目の前には広大な海と、空、そして空の中に浮かぶ太陽が照っている。潮騒の音が一気に耳に届いて、これまで蓄積していた精神的なストレスが飛んでいきそうだった。
開放感がすごい。
潮風を肺一杯に吸い込んで吐き出す。
サーファーが何人か波に乗っている。こんな季節でも人は想像以上にいた。やはり海を見たいとやって来た人々だろうか。波を追いかけたり、各々浜辺で会話を楽しんだりしている人たちがいる。
「亜紀ちゃんの見たかった景色が見られた?」
「うん。一瞬で。何時間でも見ていられそう」
「本当にね。綺麗ね」
千歳は波打ち際まで行って、波の行方を追ったり引いたりしていた。私も真似をしてみる。
空君が一眼レフを向けて立っている。
「亜紀さん、ちょっとそこ立って下さい」
大きな声が聞こえて、空君を振り返る。すると一枚写真を撮られた。
「あ、やられた」
「へへ、やっちゃいました」
写真を撮られるのは本音、苦手だ。卒業アルバムの写真など、いかにも精神の病を患っていますといわんばかりの表情だった。あれを見て以来、私は写真が嫌いになっている。
「もういい?」
「ダメです」
空君ははっきりと言う。えぇ、という声が漏れた。
「波のほうまでよって、左手で耳に髪をかける仕草をして下さい。前屈姿勢で綺麗な貝殻見つけた、というような感じで」
指示通り動く。
「こ、こう?」
ぎこちない動きに空君は細かく指示を出す。この子、本当に将来はプロの写真家になれるのではないだろうか。言われたとおりにしているうちに、「あ、そのまま」と言われて動きを止める。
吹き付ける風に、髪がバサバサになりそうだ。今日は久々に垂らしているけれど、結んでくればよかったと後悔をする。シャッターを押す音が何度も聞こえた。
「ご協力、ありがとうございました」
駆け寄ってくると、深々とお辞儀をする。
「いえいえ。お役に立てたのならよかった」
空君は千歳を呼び寄せると、記念にと他の人に頼んで海を背景に三人並んだ写真を撮って貰った。好意的に写真を撮って下さる人がいるのは、本当にありがたい。
「あとで現像しますね」
空君は満足げにカメラを眺めている。
一際大きな潮風が吹き抜けていき、冷えを感じたので、浜辺から少しだけ離れた階段に三人で座って海を眺めることにした。すると、思い出したかのように千歳が言った。
「そういえば私の心臓のこと、トシさんがお話ししたみたいね」
「あ、うん・・・・・・」
本当に隠すつもりはなかったのだろう。千歳の声に不愉快そうな声は混ざっていない。
私はなんと言えばいいのかわからずにいた。あまりずけずけと訊ねるのもデリカシーがないし、どこで地雷を踏んで関係が壊れるかわからないという恐れもあった。
「具合はもう大丈夫なのでしょう」
恐る恐る訊ねる。
「もちろんよ。ただ、海へ来ると思い出すの」
千歳は隣に座ったまま、遠くを見ている。私は続きを待った。
「五歳の時かな。アメリカに、同じ病気で来ていた日本の、同じ年の子がいたのよ。とても仲良くなってね。広間のテレビで西海岸が紹介されていたの。そこに映されていた海がとても綺麗で、その子は親に抱えられながら見ていた。知っている? 心臓ってあまりに悪いと歩けなくて、特に幼児は抱えられて動くことしか移動手段がないの。今はわからないけれど」
「知らなかった」
「そりゃそうだよね」
千歳は笑う。
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