第17話
「海か・・・・・・行きたいな」
海なんてもう何十年も行っていない。ただ広い風景を見てみたいと、ふと思った。
「なら、行きましょうか」
「え」
「江ノ島なら近場だし。夏じゃないから人も少ないでしょう。どう?」
「一緒に行ってくれるの」
「もちろん。だって、亜紀ちゃんがどこかへ行きたいなんて言ったのは初めてだから」
そういえばそうだ。どこか旅行へ行きたい、と思ったのは初めてだ。
「ありがとう・・・・・・」
「また聞けた。亜紀ちゃんの『ありがとう』。三回目かな」
「いいよ、数えなくて」
回復したと思って会社勤めをしていたときも、景色を見にどこかへ行きたいと思ったことはなかった。
ただ将来の不安からお金を貯めることだけに必死で、日帰り旅行のひとつもしたことがない。
必要最低限の会社へ行くための服が欲しいと思って近場のショッピングモールには時々行っていたけれど、勤めていたときもうつは少し残っていたのかもしれない。
小学生の時の家族旅行はただ親に連れて行かれるままだったから、私の意思というものはそこになかった。でも今は私の意思で行きたいと考えている。
この、海の写真を見て。
「私、高校生に触発されたんだ・・・・・・」
セピア色の写真を眺める。
「きっとこの写真には、人の心を動かすとびきりの価値があったのね」
本当にそうだ。この海の写真で心が動かされた。
飾られている写真を全て、もう一度ひととおり見る。
どれもそれぞれが今この瞬間が大事と言わんばかりにキラキラと個性を放ちながら輝いている。二度と戻らない日々の写真がこうして残されているということが、なんだかとても尊く感じられる。
価値のないものなんて、この世にはなにひとつないのかもしれない。
なら、私は。私は? 生きている価値、あるのかな。
気づくと千歳は窓際の机に置かれていたノートに感想を書いている。近づいてなにを書いているのか読んでみることにした。
『たくさんの気持ちがつまった写真を見せて頂いて、とても清々しい気持ちになりました。どうもありがとう 佐倉千歳』
千歳らしい感想だ。私も書こう。心を込めて。
『どれも個性豊かで素晴らしい作品でした。これからも今その瞬間しかない素敵な写真を撮って下さい。どうもありがとうございました 遠山亜紀』
ちらり、と前のページをめくると、批判めいたことも書かれていた。なにも高校生が撮った写真にケチをつけなくてもいいのに。そう思いながらノートを閉じる。
千歳はまたデジカメを構えた。
空君の撮った写真の前で、空君と並んで。それから神戸さんに頼んで千歳と空君と三人で。
私のリクエストで、神戸さんの撮った海の写真の前で他の生徒に頼んで四人で。
思い出は、カメラの中に刻まれていく。
他愛のない話をしたあとで写真部を出てから、手芸部の展示を見たり、料理部で試食をしたり、お化け屋敷に入ったりもした。どれも手が込んでいて、誰も手を抜いていない。
みんな思春期のさざめく感情の中を一生懸命生きている。
お昼にコスプレ喫茶に入ってオムライスを食べてから、体育館で行われている演劇を見る。
男女を逆転させた少しコメディの脚色の入ったロミオとジュリエット。
コメディ部分に笑うことはなかったけれどフレッシュな感性の中にいると、まだうつ病を発症しなかった十六歳くらいのみずみずしい気持ちが蘇ってきそうになる。
きそうになる、というだけで、胸にみずみずしさの泉が湧き上がってはそこでつかえて溶けてなくなるのだけれど。でも、衣装を作るのだって大道具や小道具を作るのだって大変だっただろう。
この日のために何日もかけて準備をしてきたのだ。私はうつになってから自分のことだけに必死で、相手のことを考えるということをあまりしてこなかった。
でも、千歳の影響で、相手のことも考えられるようになってきている。役者達はそれぞれの演技をやり遂げて、拍手を浴びている。
照明が明るくなった。
次の部活の準備があるからと、一旦外に出される。
「疲れた?」
千歳が私の顔を見る。
表情に疲れが滲んで出ているのだろうか。
「ううん。ちょっと楽しい」
「このあとこの体育館で三時から軽音楽部のバンドですって」
パンフレットを開いて千歳が確認している。見ると女子生徒が楽器を体育館に運んでいる。
バンド。エレキギターの音やベースの音に疲れてしまいそうだ。だが、バンドなんて生で見たことがない。これを逃したら、一生見られる機会がないかもしれない。
「見てみようかな」
「じゃあ、待とうか」
始まるまでの三十分の間を屋台で潰した。いい香りがいろいろなところから漂ってきてオムライスを食べたはずなのに食欲が湧いてくる。反面、少し胃がムカムカする。
たこ焼きにフランクフルトを買って、並べられた専用の机で食べる。
千歳はチョコバナナと綿飴を買っていた。甘いものが好きなのだそうだ。
来年の夏には、町内で行われるお祭りにでも行ってみようかな。今行ったらどんな気持ちになるのだろう。そんなまだ来ない夏の時期の未知の気持ちに思いを馳せる。
来年は今年の私とは異なる私になっているはずだ。千歳やトシさんや空君に出会えたから今よりきっと、もっと色がよく見えるに違いない。
「海、いつ行きましょうか」
「私はいつでも。千歳の都合のいい日で大丈夫」
「じゃあ、来週の日曜日はどう?」
意外に早いと思ったが、時期はいいかもしれない。十二月になったら寒さで凍えてしまうだろうから。
「わかった。十一日だね」
「空君も誘ってみましょうか。きっと写真を撮りたがるわ」
「いいね。三人で行くのも」
「じゃあ、あとで伝えてみるわね」
年上の女二人と海へ行く高校生。でも多分、空君はそういうことに動じない子だ。
風が秋に包まれている。鮮やかな思い出が、千歳や空君のおかげで積み重なっていく。
人生ってこういうものだよ、普通。
私はどれだけ、感情をなくしていたのだろう。いつから感情をなくしてしまったのだろう。
当たり前のように人が楽しんできたことをひとつも楽しめずに生きてきた。もっと早く千歳に出会えていたら。そんな仕方のないことを考える。
「そろそろバンドが始まるかな」
屋台で買った全ての食品を平らげ、私はスマホの時計を見た。食べ過ぎて胃が重たい。
「じゃあ、行きましょうか」
通り過ぎる人々が千歳を振り返る。顔立ちも整っているけれど、醸し出される雰囲気に大輪の花が咲いたような透明感と美しさがあるのだ。うつでほとんど感情が動かなくなっていた私でさえ、初めて出会ったときに美しいと思えたくらいだ。
これはもう天性のものか、それとも病気をして努力をした結果そうなったのかわからないけれど、内面と外見が見事なくらい一致している。
「ん。私の顔になにかついている?」
じっと見つめていたらそう問いかけられた。
「ううん。ただ綺麗だなって思って」
「ええ? そんなことないよ」
初めて照れた笑いを浮かべる。澄み渡る空の下で見るその顔は、少女のようだった。
体育館へ戻ると既にバンドを楽しみにしている生徒達や招待されて来たであろう別の高校生や、大人が男女含めてぎっしりと列を作っていた。
「みんなこういうの好きなのかな」
私は小さな声で言う。
「歌は元気を貰えるしね。特に高校生となるとみんな興味津々なのでしょう」
時間になって、ドアが閉じられる。周囲は黒いカーテンに覆われ暗くなった。
やがて、照明が眩しくなったかと思うとドラムやエレキギターやベースの音と共に高い歌声が響いた。
ボーカルは二人の女の子だ。衣装は全員制服とは違う、赤のブレザーに黒のリボン、黒のフリルの付いた短いスカート。
地の底から湧き上がるような音がする。空気がビリビリと震える。
会場は一気に盛り上がった。サイリウムやペンライトまで持っている人がいる。プロも顔負けするくらいの勢い。もしかしたら、本当にどこかでライブでもやっている子達なのかもしれない。
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