第13話

「たまに。実家の近くの神社には、月二回は行くかな。こことはまた違った景色が見られるから。神社って不思議よね。街中にあっても厳かで静かで、敷地内に入れば空気が全く異なる。きっと神様が、空気を綺麗にして下さっているのかもしれないわね」



なんでそんな風に考えられるのだろう。彼女はきっと、なにを見ても幸せを感じられる人なのかもしれない。


小さな頃からこんな考え方をしていたら、きっと人生も素晴らしいものになったのかもと思う。


「千歳っていつも幸せなの」

「ええ。ほとんどいつも幸せよ」

「なら会社勤めをしていたときは」


訊ねるとふふ、と笑った。


「忘れかけていた」

「千歳でもそうなることがあるんだね」 


「そうね。昼間外を歩けばいろいろなものや人と出会えるでしょう。そこを毎日オフィスの狭い空間にいたら、いっぱいいっぱいになってきて、人生無駄にしているなって思うようになっちゃって。当たり前の幸せを忘れているなと気づいたの。幸せって当たり前になりすぎると感覚が麻痺して、だんだん驕り始める。人にも無神経な態度を取ってしまう。それも嫌になって、一度きりの人生だから、思うままに生きようと思い始めて。生活はカツカツだけどね」



夜まで会社にいたら見られないもの、昼間にだけ見られるものが千歳にはあるのだろう。そういう性格の千歳は、会社勤めには向いていないのかもしれない。そうして、思うままに生きているからこそ心も真っ直ぐで真っ白で健全なのかもしれない。


「あ。そうだ」


空君から貰った文化祭のチケットをバッグから取り出して、千歳に一枚渡した。


危うく忘れるところだった。


この前ぐにゃりと歪んで見えた文字は、「城宮高校文化祭招待券」と書いてある。


背景には誰かが書いたのかわからない七色のパステルカラーの虹。


「今年は空君からなかなかもらえないなと思っていたら」

「私がもらっちゃっていたよ」


自然と笑みがこぼれた。確実に私の中に変化があるのを実感するが、無職で高校生の男の子にも迷惑をかけるような愚か者は死んでしまえ。そんなことを思うもう一人の自分もいる。


「レインボーローズに、このチケットの背景。虹でいっぱい。二回も見られたということは、なにか意味があるのかな。吉兆だといいわね」


「本物の虹も見られたらもっといいかも」


「そうね。この虹を描いた高校生も、そんな夢を持って描いたのかもしれないわね。あるいは本当に見たのかも。作り手の優しさが感じられる。七色の幸せを体験してほしいって言われているみたい。幸せにも種類によって色があるのかもしれないわね」

日がずれて、私の頬に当たる。暖かい。


そういえばどうしてこんな千歳みたいな人が、結婚していないのだろう。


これまでの会話の中から独身だということは察しがついていた。容姿端麗だしモテそうなものなのに。こんなところでこんなことを考えてしまうのは、私の心が歪だからだろうか。それでも聞くには勇気が要るので、黙っていた。


「さて。今日はこれから占いのイベントがあって。夜まで帰れなくなりそう」


千歳は立ち上がる。


「あ、この前言っていた?」

「そう。呼び出しがかかってデパートの広場でやるの。一人千円だからお客さんも多そう」


悪い結果が出たとき、千歳はどんなことを言うのだろう。きっと言葉を選んで、あるいはポジティブな言葉に変換しつつお客さんにその悪い結果を傷つけないように伝えるのだろう。


「頑張ってね」


人の運命を見るというのも、大変な職業だと思う。


「ええ。そろそろ行かなくちゃ」

「いろいろな出会いがあるといいね」

「ありがとう。一緒に文化祭、行こうね。もう、すぐよね」


千歳は手を振り去って行く。


私はほんのしばらく季節を感じ取るためにその場に残り、それから立ち上がった。


 

体力がまだない。うつになるとなぜ体力がごっそり削られるのだろうか。


家に帰るとすぐ横になってしまう。父は異物でも見るかのように接してくるし、母に至っては相変わらずいつも苛々しているが私にはなにも言ってこない。


私の人生の休息時間は十何年? 長すぎるよ。


うつじゃなければどれだけ違った人生があったのか。


しかしうつになったおかげで千歳や空君やトシさんに出会えたのかもしれないとも思う。天井をぼんやりと見つめる。


空君に、私はまだあの日の非礼をお詫びしていない。


思い出すと恥ずかしくなって死んでしまえとまで思うから、なんとなく喫茶店のある通りを避けていた。花守神社へ行くときは道を一本ずらし往復していたのだ。だがこのままなのはやはりよくない。文化祭も近いし。



千歳は夜まで占い鑑定だから、今日は家庭教師の日ではない。空君が帰ってきそうな時間帯を狙って布団の中から出ると、着替えて喫茶店へ行った。


喫茶店名は「Cycle」。実家から近いのに、このような喫茶店があることさえ気づかず、しかもこの前来たときは名前すら目に入らなかった。午後六時までやっているらしい。



上半分が窓ガラスの、重厚な茶色い扉を開けた。鈴がカラン、と鳴る。


「いらっしゃい。おや」


マスターは顔を覚えていてくれた。名前、なんだっけ。必死に思い出す。


タ行だった。タ、違う。テ、じゃない。ト、だ。ええっと、トシさんだ。


「なんとなく来てみました。この前のお礼も言っていませんでしたし、空君にも話したいことがあって」


カウンター席に案内される。お客は私の他に一人もいない。


「コーヒーを飲んでいる間くらいに、空は帰ってくるでしょう。ご注文は」

「じゃあこの前のオリジナルブレンドを」


トシさんはかしこまりましたと言ってサイフォンを用意し、豆を挽く。


「この喫茶店はいつからやっているんですか」

「もう五十年ほどになります」

「半世紀も?」


酷く驚く。


長い間この街にいるのに、本当に気づかなかった。両親は知っているのだろうか。


話に出たことがないから知らないのかもしれない。どちらかというと隣のホテルの看板のほうが目立っており一階ロビーにも喫茶店があるから、人の目につきにくいのかもしれない。


「私はここで働くようになって十年ほどです。その前は父がやっておりました。今ではホテルのほうに客が流れているけど、うちを好きで来て下さっている常連さんもいるからなんとかやっております」


創業当時二十代の人がここに通っていたら、今はもう七十代だ。


「この喫茶店は色々な人の人生を半世紀分も見てきたのですね。一体どんな人々を見守ってきたんだろう・・・・・・」


トシさんはふと口元を緩めた。


「亜紀さん。ちょっと千歳ちゃんに似てきましたか」


言われて我に返った。本当だ。千歳と似たようなことを言っている。


「完全に影響を受けています。千歳みたいになれたらいいなって、最近はよく思っていて。私と本質が全然違うから、今から彼女のような心持ちで生きるのはなかなか大変だろうけれど」


「いい影響を受けているようで安心しました。初めて亜紀さんがここに来た日は顔色が酷く悪くて今にも消えてしまうのではないかと心配したくらいですよ。今日は血色もいい」

「心配させてしまってすみません・・・・・・」


お待たせ、といってブレンドが目の前に置かれる。


一口飲み、あ、と思う。味覚が戻っている。渋みとコクのあるコーヒーの味が舌一杯に広がっていく。この喫茶店、こんなにコーヒーが美味しかったんだ。


「味覚・・・・・・味覚も元に戻っています。私うつになると味覚もなくなるくらいだったのに」

「味覚が? それは大変でしたね」

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