第12話

十月八日 


薬の影響とはいえ、三十五にもなってはしゃいで甲高い声を出した愚か者。


もう二度と薬は飲まない。心療内科へも行かない。それでどうにかよくしていこう。


よくなればまた働けるのだ。それには親身に治そうとしてくれる千歳と話す時間を作ったほうが遙かに有意義に思えてきた。だから私はどんなにしんどくても花守神社へ

行くと決めた。



「最近毎日来てくれるのね」


千歳はいつものベンチに腰をかけ、嬉しそうに言う。


「うん」

「なにか心境の変化でもあったのかしら」


変化というほどのことでもない。ここへ来ているのはただの打算。打算で動くことに後ろめたい気持ちもあるけれど、千歳と会うことが最近は楽しくなっている。


「変化という変化はまだないよ」

「私ね、亜紀ちゃんの心象風景がどう変わるのかなって毎日楽しみにしているの」

「まだ変わらないよ」


「うん。少しずつ、少しずつ変えていけるから。その分亜紀ちゃんとたくさん会える」


「・・・・・・・・・・・・」


「二人で幸せを探していけるよ」

「私に幸せなんて・・・・・・」

「きっとある。だから見つけよう? ね?」



レインボーローズから声が聞こえたと話したように、千歳は前向きで綺麗な言葉しか使わない不思議な人だった。母から汚い言葉ばかり聞かされていたのでとても新鮮で、時々恥ずかしくなったりもするけれど、ひょっとしたら本当に幸せになれるんじゃないだろうかと思えるような言葉を次から次へと紡いでいく。



「こんな晴れた日は、小鳥達も気持ちよく歌っていそうね」とか「世界中の何十億人という人の中から亜紀ちゃんと出会ってこうして過ごしていることがすごく幸せ」とか。



言霊使いみたい。そんなことを思う。千歳の放つ言葉が、魔法にかけられたみたいに染みこんでいき、波紋のように広がってちょっとずつ心の奥が反応するようになっている。



前向きな言葉を使っていけば、私も幸せになれるのかな。誰だって幸せになりたいのだ。


でも幸せってどんな気持ち? 


そんなこともわからない。いや、忘れているのかも。わかりたい、思い出したいと思えば思うほど、千歳に会いたくなって気づけば毎日神社へ通っていた。



天気は私か千歳に味方をしてくれているのか、毎日のように晴れている。空君に醜態をさらしてしまったことは特になにも言っていないし聞かれていない。

 



十月二十八日 


朝早く起きて、花守神社でお参りをして、千歳と会う。


ふと、爽やかな秋の風を感じた。あれ、と思う。


これまでは風が吹いてもそれはただの風で、なんとも思わなかったのに、妙に気持ちがよいと感じられる。家から徒歩十二分の神社であるにもかかわらず、なんだかとても心が穏やかだ。


「少し表情がついた?」


千歳が顔をのぞき込み変化に気づいたのか言った。



「・・・・・・秋の風を感じて。それが透きとおっているような気がして」


風に揺れて、葉のこすれあう音もする。さわさわとした音が耳に心地よい。


こんな心地よいなんて思う感覚も随分長いこと忘れていた。


「亜紀ちゃんの心が少し、生き返っているのかな。神社の中は空気がいいわね。それに今の時期は空が高い。こうして亜紀ちゃんと見られる風景は、一人で見るよりも何倍も楽しい」


「また、そんなことを」


「だって本当のことですもの」


少し照れる。


よく見ると、神社の敷地内には拝殿の他に、稲荷が三つ、祠もある。お供え物も。二十日以上も通って、こんなことにも気づいていなかった。


ベンチのすぐ脇にある高い木が、黄色く色づき始めている。太陽が木漏れ日を作っていた。こんなベンチの脇に木なんてあったかな。銀杏の木かな。毎日座っていたのに、やはり私はなにも目に入っていなかった。


「少しずつ、いろいろなものが目に入るようになってきたかも」


正直に言った。


「心で見る景色は」


私は目を閉じ今目に焼き付けた木漏れ日の光景を再現させる。黄色い葉と葉の間から

優しく差す光――。まだ黒く見える部分もあるけれど、色を感じ取れる。


「うん、少し感じられる」

「よかった。一歩ずつ前進しているね」

「季節の匂いも感じられるかな。秋の澄んだ香り。葉の香り」

「静かに呼吸をしていると、季節にも香りって感じられるのよね。四季の織りなす自然の色って不思議。一つとして同じ風景がなくて、でも何年も何千年も続いてきた。人間が誕生する遙か前から、世界には色があったのよね。それはどんな色だったんだろう」



素直に思い描いてみる。人間が誕生する前も、木が紅や黄色に色づくことはあったのだろうか。海は今よりももっと広大で遙かに青かったのかもしれない。


「それにね、春にはこの神社、鳥居付近の木々に一斉に桜が咲くの」

「あ、それ知っている」


小さい頃よく見ていた桜の光景が長い間眠っていた記憶の中から蘇った。桜吹雪の中を母と二人でお参りに来たこともある。


「桜の色も毎年異なる。花びらの白っぽい年があったり、鮮やかなピンクの年があったり」


千歳はたくさんの綺麗なものを目にしてきたのだ。


そして些細な違いにも気づく繊細な感性がある。


「ここにも私と出会う前から来ていたの」


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