第11話
遠慮したのだろう。
ならばワンサイズ大きいのにする。
レジに立つ。財布を持つ手がなぜか震えている。いろいろと考えてしまう。
私の頭から失われていって取り戻せない言葉の数々から、人を傷つけないようにする言葉を選びとらなければ。
特に高校生なんて繊細なのだから。ペンはナイフよりなんとか、という言葉は私自身が身に染みてよく知っている。ああ、なんとかの部分が頭の中から出てこない。
そうして、クリニック帰りで酷く精神が摩耗していることと、クリニックへ行ってもなにも解決していないことに絶望していることに気づいた。
重い体を引きずって、馬鹿にならない往復の電車賃もかけて、わざわざ行っても話すのは薬のことだけ。半ば脅されたことにも不快な気持ちになっているからこそそれが身体の節々に現れている。
やっぱり心療内科に行くんじゃなかったと後悔してももう遅い。
ブレンドのMサイズとSサイズを頼み、店員にトレイに乗せてもらうと、レジ横にある砂糖とミルク、それからグラスに水を注いで空君のもとへ行った。
高校生に奢るのは大人として当然のことだから咄嗟に口に出せたけれど、上手く話せる自信がない。勉強だって見られるだろうか。
小学生ならまだしも高校生の勉強なんて私に教えられる? 高校ってどんなことを学んだっけ。
不安が一気に押し寄せてきて、私は空君に断って副作用もわかっているのに、飲むのは嫌だと思うのに、高校生との会話についていけるようにとサインバルタを一錠飲んでしまった。
空君はMサイズのコーヒーを見て一瞬私に目をやる。頷くとありがとうございますと言って数学の教科書と参考書とノートを取り出す。
「この三角関数の加法定理の応用問題なのですが」
サンカクカンスウノ・・・・・・。なんだって? もう既にわからない。
私が高校二年の時はもう精神状態がヤバすぎて成績は下位ではなかったか。空君は私がわかると思っている。でも私はわからない。期待に応えられない。どうしよう。
「ちょっと見せて」
教科書を文字通り読めばわかるはず。追試ばかりの高校生活だったが、教科書をきちんと読んで理解すればなんとかなった。そう思ったが、だめだ。緊張して、頭のどこかがぎゅっとなっていて、活字がさっぱり頭に入ってこない。
私は頭を下げた。
「ごめんなさい。わかりません。数学は特に苦手で」
「ええっ、そうなんですか」
顔を上げると、ちょっとがっかり、といった表情が読み取れた。感情が動かないといっても、人の心を察することくらいはできる。
「ああ、なんだぁ。じゃあ先生か千歳さんに聞くしかないかな」
「本当、ごめんなさい」
「大人はみんなわかると思っていました」
「いやいや普段使わないとすぐ忘れちゃうから」
「そうか。まぁ、そうですよね。俺も小学生の時に習ったつるかめ算とか忘れていますし、普段から使っていないとそういうものですよね」
店内にいる人々のざわめきがやたらと大きく感じられる。
私は砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲んで頬杖をつく。突然、頭がなにかに引っ張られる感覚に陥った。黒く覆われた前頭葉を薬の力で無理やり、強制的に晴れさせようとしている感覚。脳のどこかが酔い始める。
「本当にごめん。ごめんねぇ。あのさぁ、私高校の時勉強全然できない子だったからぁ。成績も悪くってさぁ。先生によく呼び出し食らってぇ。だからといって、高校生活が充実していたって訳じゃないんだけどぉ」
空君は少し身を引いて私の目を見つめる。
「遠山さん? 大丈夫ですか。なんか目つきが店に入る前と違う」
「大丈夫ぅ。亜紀でいいょぉ。それでぇ、これがぁ、メンヘラってやつだよぉ」
始まった。始まったのに止められない。
薬を飲んだことによる頭と心の分離。心では、ちゃんと喋らなきゃと思っている。
大人らしく振る舞って、不快感を与えないように話さなくてはと。
薬が頭に回ってふわふわとしている。
夜に飲めば、インターネットで大量によくわからないものを注文してしまうことだってある。
真夜中に、コンビニにふらっと出てしまうこともあるのだ。これが本にもネットにも載っていない副作用。自制が全て吹き飛ぶ。
人の心も精神的な病も全て方程式で解ければいいのに。
「変な汗もかいていますが、体調大丈夫ですか」
あとで謝らなくちゃ。こんな高校生の男の子にまで迷惑をかけてなにをやっているのだろう。
「大丈夫だあって。それでねそれでね、高校の時は進学校でもないのにスカート丈検査とか持ちものとかぁ、髪のゴムの色の検査とかぁ、学校指定の靴のチェックを毎日放課後やらされてたんだぁ。夜まで家に帰してもらえなくってぇ。帰る頃にはいつも星が見えていてぇ。ああ、すごい厳しい学校だったんだぁ。空君の学校はどうぉ?」
違和を確実に感じ取っている。それは私にもわかる。空君は教科書一式を鞄にしまっていた。
「うちは自由ですけど。本当に大丈夫ですか」
「自由っていいねぇ。あ、これねぇ。薬のせいなのぉ。薬でこうなっちゃうんだぁ。だから飲みたくないって言ったのに先生が無理やり出したんだよぉ。飲んだ私もバカだけどぉ、こうして空君とお話しできているから大丈夫ぅ」
サインバルタ。これでうつ、よくなるわけがない。
空君はコーヒーを半分まで飲み干すと、鞄から二枚の縦長の紙を取り出した。
「これ、文化祭の招待状です。うちの学校招待制なんですけど、よかったらどうぞ。来月初めなのでまだ先ですけど」
見ると高校の名前と、背景の絵がぐにゃぐにゃと揺れている。
「え。うっそぉ! きゃー。私、高校の文化祭に行けるの。行っていいのぉ」
「ええ。ぜひ。千歳さんと一緒に来て下さい」
「えー、空君他に呼びたい人とかいないのぉ」
甲高い声を上げたせいか周囲が振り返っている。恥ずかしい。なんという醜態。
「いないんですよ。だから毎年千歳さんに渡していました。今年は遠山さんが一緒ですね」
「だっからぁ、亜紀でいいってぇ。でもうっれしー、ありがとう!」
バカみたいにはしゃいでバッグに入れる。こんな自分じゃだめだ。
心のどこかでそう思っている。こうなったら薬が切れるまで待つしかない。
「もう帰りましょう。送ります」
「えぇ~っ、コーヒーまだ全部飲んでないよぉ」
「いいんです。もう日も暮れますし」
「じゃぁ、空君がぁ、全部飲んでからにしよぉ」
言うと空君は一気飲みをしていた。そうして立ち上がる。
「一気飲みすごぉい! 早いねぇ」
「さあ、帰りましょう。ちょっと心配になってきました。立てますか」
「立てる立てる。子供じゃないんだしぃ」
私は立って見せた。そうしてよろめき、空君に支えられた。
「ごっめぇん。ありがとぉ。立てるって言ったのに立てなかったよぉきゃははは」
自分自身の不快な声が響く。聞いているほうはもっと嫌な気持ちだろうな。それでも空君はなにも言わない。
結局空君に見守られながら帰ることになった。
一緒に帰っている間も、昔の自分の高校生活のことやら、うつやクリニックのことやらをなにかに取り憑かれたかのように意気揚々と延々、どうでもいいことをきゃぴきゃぴとした口調で話し続けていた。
空君は困惑気味ではあったけれど、嫌な顔をすることもなくただ淡々と私の話を聞いて家の前まで送ってくれた。
玄関を開けると自分の部屋へ行き、酔った頭のまま布団に入って眠り続けた。
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