第10話

「え、一日分? 普通は二週間出すよ」

「一回飲むだけでいいのなら二週間分も要りません」


お金の無駄だ。


斉藤先生は膨れっ面でカルテにサインバルタ一日分朝昼晩三回、と書いている。


「じゃあ二週間後、また来て」


どうしようかな。なんだかここへ来ても全然よくなる気がしない。手帳の話もできない。


診察室を出る。会計を済ませて外の空気を吸っても気持ちが晴れずになんだかモヤモヤとしている。クリニック帰りはいつもそうだ。


薬の話しかしないから、釈然としないまま、少しうつが広がって帰る羽目になる。


薬局で薬を貰うと、もう四時過ぎになっていた。制服を着た学生の姿がよく目に入る。


このままだと電車が混みそうだ。階段を下り地下鉄駅構内へ入り二駅先で降りて乗り換えるために歩いていると、駅ナカにあるコーヒーチェーン店が目に入った。


一息つきたい。でも一息つくと会社帰りの人々の通勤ラッシュに当たって益々電車が混むかな。



コーヒーを飲むのなら、前行ったホテルの隣の喫茶店へ行こうか。


入るかどうするか躊躇していると、背後から「あの」と声が聞こえた。


振り返る。どこかで見た顔だけれど覚えていない。随分若い子が立っている。


「田辺空です。遠山さん、で間違いないですよね」


空・・・・・・? 誰だっけ。


「あ、はい。遠山ですけど」

「ほら、前喫茶店でポラロイドを撮らせて頂いた」

「ああ・・・・・・」


ようやく思い出した。爽やか可愛い系男子。学校の帰りだろうか。


紺色のブレザーにネクタイ、グレーのズボン。サブバッグを肩からかけている。


「間違えなくてよかった。偶然ですね。どこかの帰りですか」

「病院の帰りで。あなたも帰り?」


とりあえずなにか言わなくてはと必死に言葉のボールを投げる。


「はい」


そういえば以前、新橋から地下鉄に乗り換えて二つ目の高校へ通っていると言っていなかったか。なんとか思い出して私は無理に笑顔を作った。


「あなたの高校、私の通っているクリニックと同じところにあるんだね」

「へえ、そうだったんですか。あ、空でいいですよ」


会話が途切れ、しばらくの沈黙が続く。なにか言わなくちゃ。せっかく声をかけてもらったのだし。


空君もよくこんな年上の女に声をかけられるものだ。家族以外なら偶然会ってもなにも言わずにいる人も多い。そういう経験もある。高校の時の異性のクラスメイトや、休日に偶然同じレストランにいた元会社の人がそうだった。


「入るんですか、ここ」


空君はコーヒーチェーン店の入り口を指さす。


「入るなら、空君のお店のほうがいいかなとかいろいろ考えちゃって」

「コーヒーチェーン店と喫茶店のコーヒーって味が違うでしょう」

「ええ。まあ」


味はよくわからないのだけれどなにか返さなくては。うつが酷くなっていく度にボキャブラリーも私の頭の中から消えて、人との会話が下手になった。


回復してからの五年間、会社ではなんとか作り笑顔で誤魔化してきたけれど必要最低限の話しかしていなかったことを思い出す。



「うちのコーヒーも美味しいですけど、俺実は飽きているんですよね。そうだ、一緒に入りませんか。ちょっと勉強でわからないところがありまして。教えて下さい」


「え。私で見られるかな。千歳は?」


「今日は家庭教師がない日なんです。部活もないから出された宿題をここでやろうかと思って」


「わかる範囲でならいいけど・・・・・・」


「じゃあ入りましょう」


空君はさっさと中へ入っていく。このコーヒーチェーン店を、学校帰りにいつも利用しているのかとても慣れた様子で席取りをしている。私ははじかれたように後を追い、空君のおさえてくれた長方形のテーブル席に荷物を置いた。そして急いで財布を取り出す。



「待って。奢るわ。この前お世話になったし」

「え、でも」


空君は遠慮がちに私を見る。写真を撮ってもらったそのお礼をしていない。


「こういうのは大人の役目だから。無職とはいえコーヒー代を出せるお金はあるし」

「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」

「なにがいい?」

「ブレンドのSサイズで」

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