第9話

十月六日


朝早く起きるのは相変わらず苦痛だったけれど、その日も千歳と一時間程度の話をして一度帰って正午まで眠りこけた。三時に二十代の時にお世話になっていた心療内科へ向かう。


二十代の頃は心療内科を転々として、最終的に落ち着いたのが斉藤心療内科クリニックだ。


実家の最寄り駅のJRから五駅目の新橋駅で地下鉄に乗り換え、二つ目の駅で降りる。


駅からは徒歩三分。比較的空いていて、出会った中では一番マシな精神科医だった。

マシ、というだけで思うところは色々ある。精神科医、という存在に対して長い間心

を患っていた患者の立場から物申したいことはたくさんある。


人は私以外誰もいない。受付を済ませて十分ほど待ったところで呼ばれた。診察室に赴く。


「また来たの。久しぶり」

「はい」 


パソコンのある白い机を挟んで、私は斉藤先生の前に座る。当然だけれど以前来たときよりも大分年を取っている。黒かった髪に、白髪が交ざっている。


「どうしたの」


なぜか精神科医というのは敬語を使わない。これってなにか意味があるのだろうか。


「うつが再発しました」

「心当たりは?」


中肉中背の五十代。目がぎょろりと光る。


「特にはないです・・・・・・強いて言えば仕事が忙しかったくらい」

「今誰だって忙しいよ」

「まあ、そうですね」


うつをチェックするシートを渡され、その場で書かされた。以前も初診時に書いた。


「食欲はあるか」「倦怠感はあるか」「泣きたい気分になることがあるか」などといった簡単な質問にイエスかノーかでマルをつけていくものだ。終わると斉藤先生は計算をし出す。


「はい、五十六。中度うつ」


数字はひとつの指標になるのだろう。


「まあ、自分で思ったとおりです」

「今の状態はどんな感じ」

「なにを見ても心が動きません」

「よくなる薬、あるよ」


私は小さくため息をつく。 


「薬は二十代の時に散々飲んで副作用で苦しめられました。断薬して病院送りになったことは先生もご存知でしょう。正直もう飲みたくないです。一度飲み始めたらいつ辞めればいいのかわからなくなるし下手に辞めれば離脱症状で取り返しのつかないことになります」


「中度うつからよくなる薬、あるんだよ。一度試してみて。サインバルタ」


飲みたくないといっているのに。やっぱり来るんじゃなかったかな。ゆくゆくは手帳を・・・・・・なんていう話も雰囲気からできそうにない。


「副作用はどんなものがありますか」

「まあ心配しなくて大丈夫だよ」

「サインバルタの副作用、教えて下さい」


強く言ってみると、斉藤先生は渋々と分厚い本を取り出し調べ始める。


「喉の渇きや悪心、頭痛、倦怠感・・・・・・」

「うつで倦怠感があるのにどうしてその副作用が倦怠感なのですか」


斉藤先生は首を傾げる。


「僕が作った薬じゃないからねぇ。辞めてもいいから一度だけ飲んでみてよ。ね? お願い」


懇願するような瞳で言う。


「嫌です」


処方される抗うつ薬は酒癖より質の悪い副作用があるのだ。


しかも、ネットにも専門書にも書かれていない副作用。悪心じゃなくて悪酔いだ。酒に酔う以上に性質の悪いものになる。


「じゃあなんでここに来たの。断るなら君のこと診ないよ」


パソコンを見たまま半ば脅しのような台詞。手帳を取るためとは言えない。精神科医って薬を強制的に飲ませるための医師なのだろうか。


「薬なしでよくなるためです。なんで先生はそんなに薬にこだわるのですか」


譲れない部分はやはり主張しなければ。これは自分の人生のためと、身を守るためでもある。副作用で苦しめられても医師に私の人生の責任などとれない。


断薬して倒れてもその責任もとれない。主張がぶつかり合っても守らなければいけないものはある。


「現状それしかよくする方法がないからね。本当に一度だけ。それで変わるかもしれないから」


薬じゃ変わらない。二十代の時でそれは実証済みだ。そう思ったが、これ以上話すと体力を消耗するし余計に気が滅入りそうになったので、渋々承諾した。


「じゃあ一日分だけお願いします」

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