第7話
十月五日
四日間、本当に起きられなかった。
ある朝起きたら蟲にでもなっているのじゃないかと思えるほど、うつに侵された身体でもがいていた。むしろ蟲になっていたほうが楽だったかもしれない。
這いつくばるようにして起きられたのは毎度夕方。その間の一日、以前通っていた心療内科の予約をした。
そうして夕方なんとか一階のリビングへ行くと、毎回胃に優しい食事を母が作ってくれていた。言葉遣いが荒いのは嫌だし、味も感じられないけれど染みる。
親が生きているってありがたい。あんな言葉遣いの悪い親でも。
部屋数は多い。祖父母が生きていた時代に建てた家だから築四十年以上だ。
両親と父方の祖父母とは同居していたので、今では使われていない部屋が二ヶ所ある。
両親の部屋は一階のリビング横で、私の部屋は二階の一室。使われていない二部屋の向かい側。夜は静かなので寝心地はいい。
頑張って七時に起き、神社へ向かうことにした。四日間ずっと連絡を入れ続け、
謝るたびに明日も待っているとLINEが来るので罪悪感が積み重なって益々死にたくなっている。
それにどんな一歩でもいいから動き出さなければ症状がまた悪化していくことはわかっているから花守神社へ行く。
神社はトシさんの経営する喫茶店の通りを抜けて踏切を渡り、駅を通り越して真っ直ぐ突き進む。
すると民家の林立する緩やかな下り坂があって、その坂を下りきったところに静かに佇んでいる。家から徒歩十二分ほど。境内から参拝場所までは直線で二百メートルくらいはあるだろうか。
階段もない。広いとまでは言えないけれど、空間はゆったりとしている。
短大の合格を願ったきりだから十七年ぶりくらいだろうか。氏神様とはいえ随分長いこと来ていなかった。会釈をして白い鳥居をくぐると、声が聞こえた。
「亜紀ちゃん、やっと来た」
千歳が手を挙げ、嬉しそうに歩み寄ってくる。その純粋な顔を見て私は思わず泣きそうになる。
本当に毎日ここへ来て待ってくれていたのだと思って更に申し訳なくなったからだ。
「ごめん。本当にごめんね。なかなか来られなくて」
私は目に涙をためて頭を下げる。なんでこんなにダメ人間なのだろう。
「でも今日来てくれたから大丈夫よ。頭を上げて。ね?」
言われたとおり頭を上げる。
「今日はお話をしましょう。ね?」
「うん・・・・・・」
私はぼんやりと社殿を見つめた。
「待ってくれている間はいつもなにをしていたの」
「一応はお参りと、あとはひなたぼっこ」
ズボンのポケットに小銭があることを確認する。
「じゃあ私もしようかな」
二十年近くも来ていなければ、神様も愛想を尽かしているかもしれない。七五三もここで行ったし、小学生の頃は友達とよく遊んで、初詣にも来ていた。
作法くらいはきちんとしなければ。二礼二拍手一礼だったか。小銭を入れ、願う。
高価なバッグも宝石も要りません。だからうつを治して人並みの人生を送らせて下さい。
参拝を終え振り返ると、境内の脇にあるご神木かなにかで造られた細長い背もたれなしのベンチに千歳は座っていた。
いつもここで座って待っていたのだろうか。静かに隣に腰をかけ、ふと疑問に思っていたことを口にした。
「なぜ神社で待ち合わせをしようと思ったの」
「私は一駅先に住んでいるから散歩がてら歩くのにはちょうどいいし、八時だとどこもお店はやっていないしね。ファーストフードやコーヒーチェーン店じゃ空気も悪いかなと思って」
ファーストフードの独特な匂いを思い出した。
「確かにファーストフードの匂いはこの気だるい身体にはきついな。吐きそうになる。ああ、もちろん元気なときはよく利用していたけど」
幸いまだ寒さを感じるような時期でもなかった。
暖冬の影響もあってか、十月初旬に上着を羽織る必要もない。
ぼんやりと座っていると目の前に白い煙が目の前をゆらゆらと横切っていく。見ると
千歳が持っていた青い水筒の蓋にお茶を注いでいた。
「飲む?」
千歳はお茶の入った蓋を差し出す。
「あ。どうも・・・・・・」
受け取って一口飲む。ほうじ茶だ。
「亜紀ちゃんに話したかったことがあるの」
「なに」
訊ねると千歳はスマホをバッグからとり出す。
「この前頂いたお花を花瓶に活けて写真に納めたの。今はもう傷み始めているけれど、ほら」
スマホで撮った写真を見せる。レインボーローズとかすみ草はその色にふさわしい花瓶に活けられていた。しかし私には案の定、それを見ても心が動かない。
「飾ってくれたんだ」
「うん。活けているときにね、ありがとうっていう声が聞こえてきた気がしたよ。亜紀ちゃんの会社の人たちからの声。もちろん、気がしたっていうだけだけど。お花もそれだけよく咲いて。きっと感謝の気持ちのこもった花だったんだなって」
声? 声なんて聞こえるはずがないのに。
「バラの花言葉って色によって違うけど、本数にも意味があるのよ。調べてみたの」
「五本頂いたけれど・・・・・・どんな意味?」
「『あなたに出会えてとってもよかった』『あなたに会えて嬉しい』。亜紀ちゃんが勤めていた会社の人は、そういうことも考えてレインボーローズを五本にしたのかもしれないわ」
そうなのだろうか。もし本当にそこまで考えてくれていたならば、お花を頂いたときに社交辞令で言った「ありがとう」にもっと心を込めればよかっただろうか。この病の身では全てが条件反射なのだ。深く考えず、動作をインプットされたロボットのように言動をさばいている。
それがうつになってから身につけた処世術でもあった。
「レインボーローズの花言葉は『無限の可能性』ですって。亜紀ちゃんにも無限の可能性があるってことよね」
可能性なんてあるのかな。ぼんやりとそう思う。千歳は多分感性も、想像力も豊かな女性なのだ。
静かな神社の中で、様々な角度から撮った写真を見せ終始笑顔でいる。私は笑うこともできずに、ただ写真の数々を眺めていた。
「ごめんなさい」
小さく言った。最近謝ってばかりだ。千歳はスマホを動かす手を止める。
「どうして謝るの」
「なにを見ても心が動かなくて。人が綺麗だというものを見てもそうした感情すら湧かなくなる。うつは私にとって、精神のヘレンケラーと同義なの。もちろん実際は見えるし聞こえるけど、精神面ではなにひとつ情緒的なものを感じ取れなくなる。だから、綺麗と言ってくれているものにさえ共感ができない。その花を見てもなにも感じられなくて」
せっかく撮ってくれた写真を見て、こんなことしか言えない自分に腹も立つ。でもこれは本当のことで、無理をして綺麗だと言っても自分に嘘をつくことになるから余計苦しくなる。
「大丈夫」
横から声がはっきりと聞こえてきた。
「なにが・・・・・・」
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