第2話
外国からの不法侵入とスパイ行為の容疑で逮捕され終身刑を言い渡された囚人番号16817330450196637071、ミチェイルリンベと名乗る女はハーレムの思い出として、後宮の美姫たちの恥ずかしい光景を語った。
たとえば、第四夫人ノバチェリーテガの怒りは凄まじかった、という。
「なんてことだ……ヤオーマカハーンのド阿呆が……なにしてやがるんだ……あのスーパー馬鹿め……死ねヤオーマカハーン腐れヤオーマカハーン……ぶっ殺すっでワレぃ……マジでキャスい、悔しくて眠れん……死ねや、死ねや、さっさと死ねぃ、無能なヤオーマカハーン! 可及的速やかに死ねぇ! お~ん、おーん!」
寝床でゴロゴロ転がり枕に顔を押し付けては呪いの言葉を吐く第四夫人ノバチェリーテガの姿に、天井板の隙間から覗いていた女間諜ミチェイルリンベが驚いたのなんの、吃驚しすぎて危うく天井から落ちそうになるくらいだったとのことである。
誰も見ていないと思っての行動だろう。第四夫人ノバチェリーテガが屋根裏の女スパイに見せた、その情景を描写しなければならない。だが、これはもう語り手である私の文章では説明するのが甚だ困難だと認め、潔く兜を脱ぐしかなさそうだ。
私に代わって女間諜ミチェイルリンベ当人の口から語ってもらおう。
「美人揃いの後宮の中にあって、第四夫人ノバチェリーテガの可憐な美しさは水際立っておりました。人ではなく妖精なのではないかと王城の者たちは噂していたくらいです。その人が、あんな振る舞いをするとは、想像もできませんでした。薄物の寝巻を着て、光沢のある綺麗な掛け布団を掛けて寝ていたのが、右に左にドタバタ動いて落ち着かず、奇声を発して暴れて……まるで子供か、変な人でした。元が綺麗なだけに、異常な感じが目立ちました」
付け加えておこう。第四夫人ノバチェリーテガは容姿だけの女ではない。知能も人並外れていた。宮廷に大昔から伝わる古代魔術の技法書を読みこなす語学力があったし、数学と天文学の才能に秀で惑星の軌道を計算して日食を予言したほか、誰も知らない辺境の土地の習俗にも詳しかった。それでいて、賢しらな態度で人を苛立たせるようなドジは踏まない。そういうところが国王に好まれたのだろう。それが彼女にとって幸せだったのかどうかはともかく。
その夜のノバチェリーテガは常の彼女と違い、とにかく苛立っていた。ミチェイルリンベは煙草を吸いながら、その時の様子を語る。
「普段のノバチェリーテガは、とても上品な響きの宮廷言葉を使います。普通に話していても、まるで歌っているかのようです。ですが、その晩の声は違いました。呪いの魔術を唱えているみたいに恐ろしい声でした。よほどヤオーマカハーン将軍に腹を立てていたのでしょう」
ヤオーマカハーン将軍はノバチェリーテガの兄である。年は二十歳以上も違う。異母兄妹と巷では言われているが、同母である。年齢と性別の違いはあるが、顔立ちはとてもよく似ていた。頭脳には雲泥の差があった。その違いは表情に現れたという。兄のヤオーマカハーン将軍が、ちょっとぼんやりしていると、昼行燈呼ばわりされた。頭を働かせているときでも何やらボ~っとしていると周囲から思われがちだった。職場が同じこともあり賢い妹といつも比べられ、災難なことであると同情の声もあった。
だが、宮中での出世はヤオーマカハーン将軍の方が先だ。寵臣としての順位も第三位だから妹より上である。その栄進は順調だ。没落した地方貴族の倅だった彼は民主化を求めるデモ隊を鎮圧した功績を認められ先代の国王から勲章を授与される栄誉に恵まれた。そこで先代の国王に大いに気に入られたのである。先代の国王は美少年あるいは美青年と呼称されるタイプが好みだった。それに該当したわけだ。
妹のノバチェリーテガは兄の引き立てで当時の皇太子つまり現在の国王の後宮入りを果たした。兄と妹は、それぞれ先代と現職の国王二代に寵愛されてきたのである。そうあることではないので、人々からは羨ましがられた。そうなると妬む者も出てくる。そういう手合いの中でも特に面倒臭い輩が女間諜ミチェイルリンベを雇った。
第四夫人ノバチェリーテガとヤオーマカハーン将軍、この妹と兄二人を失脚させられるような弱みを握れないものだろうか?
そんな依頼を引き受けた女間諜ミチェイルリンベは後宮の屋根裏に忍び込み、第四夫人ノバチェリーテガの部屋の天井裏に身を隠して眼下の様子を窺えば、上記の如く自分の兄であるヤオーマカハーン将軍の無能を罵っている。
「ヤオーマカハーン将軍の能力不足は今に始まったことではありません。それなのに、彼の何に対して激怒しているのか、私には分かりませんでした。あるいは、常日頃から寝る前に罵っているのかもしれません。使えない兄を罵ることでストレスを発散するのです。寝る前に必ず行う入眠儀式のようなものでしょうか。それをしないとよく眠れないのかもしれまん。その証拠に、しばらく経つとノバチェリーテガは眠ってしまいました。すやすやと。」
下の部屋から健やかな寝息が聞こえてきても、しばらくの間ミチェイルリンベは闇の中で眠る麗人の様子を窺い続けていたという。変化はない。この夜の監視は中断し下界へ戻ろうか、どうしようかと考えていると、屋根裏を這い回る何かの気配が感じられた。盗賊その他の怪しい者を捕らえるため天井裏に夜間だけ放たれる大きな蜘蛛の仲間がいると彼女は聞いていた。それが自分に狙いを付けたのかもしれないと考えると、居ても立っても居られなくなり、彼女は下へ降りることにした。ずらした天井板を元通りにして、静かに移動を開始する。潜入場所である衣装室の奥の天井板をずらし、そこに生じた隙間から下の気配を窺う。衣裳部屋に人のいるふうはなかった。音もなく舞い降りる。黒装束を脱ぎ、官女の制服に着替えた。細かい埃が舞う中を進み、廊下に通じる引き戸に耳を当てる。外を誰かが歩く音は聞こえない。何食わぬ顔をして廊下に出る。
雇い主の元へ行こうかと思案した。今宵の出来事を報告しようかと考えたのである。やめておこう、と彼女は決めた。寝る前に兄貴の悪口を言っていた、というだけの報告なのだ。こんな夜更けに雇用主を起こしてまで、果たして報告すべき事柄なのか、自信が持てなかったためである。
「ですが、後になって考えますと、報告しても良かったのかもしれなかった、と。反省するほどのことではないのですが。雇い主への好印象になった気がしまして。きちんと働いていると思わせておけば、御褒美やボーナスが期待できますから。何しろ私を雇って下さった第三夫人のバーリィバーナムビー様は、とても気前の良いお方でした。手づから金銀の塊をお渡しになることも、時々はあったくらいです」
女間諜ミチェイルリンベの雇い主であるバーリィバーナムビーは新大陸有数の大富豪の娘だった。彼女の実家の同地における権威権力は旧大陸を支配する王侯貴族の比ではないとも言われた。落日の時を迎えた旧大陸の支配階層と勃興する新大陸の差が、そこにあった。それがどうして、財政破綻寸前の王国に嫁いだのか、と新旧大陸の庶民たちは不思議に思ったものだった。結論から言うと、旧体制に対する強い憧れが彼女にあったためである。彼女は後宮に入ることで幼い頃からの夢をかなえたのだ。
しかし不満がないこともない。序列は三番目の第三夫人なのだ。トップスリーに入っているとはいえ、上の二人との間には越えられない壁がある。二人とも王国内で揺るぎない地位を確立している神聖な存在であり、新参者バーリィバーナムビーとは格が違った。そこに食い込むのは並大抵のことではなかったのだ。それでは永遠の三番手なのかというと、それも不確かだ。第四夫人ノバチェリーテガの人気が高まっていた。国王はバランス感覚に富む人物だったので、すべての夫人を公平に愛するよう心掛けていたが、それでも好みはあり、ノバチェリーテガと共に夜を過ごすことが多かった。
このままでは第三夫人の地位が危ういかも……という不安と恐れがあったので、バーリィバーナムビーは実家の伝手を頼りに某国の秘密警察で働いていた過去があるミチェイルリンベを雇い入れた。自らに仕える侍女として後宮内に入れ密偵活動に従事させたのである。
その辺りの事情をミチェイルリンベは語ろうとしない。革命軍事裁判所の取り調べでも頑として口を割らなかった。激しい拷問を受けたとも噂されているが、さすがは女スパイである。
根性を見せた理由は想像できなくもない。バーリィバーナムビーの実家が革命政府に対し、様々な援助との交換で自分たちに関係する囚人の釈放を求める動きがあるのだ。その釈放要求者リストの中にミチェイルリンベの名前が載っている。雇用主の迷惑になる余計なことを喋らない忠義者は助けるという契約条項があるのだろう。雉も鳴かずば撃たれまい。
バーリィバーナムビーの実家のことは話さないチェイルリンベだが、他のことはペラペラと良く喋る。第四夫人ノバチェリーテガの寝所を初めて覗いた晩についても、それは同様だ。
「その晩は結局、バーリィバーナムビー様へ報告しないことにしました。それで、自分の居室へ戻りかけましたが、廊下で宦官のロコボイと行き会い、誘われたのです」
宦官とは、性的な機能を喪失した男性である。女性たちと間違いを犯さないため、ハーレムの召使として重宝されていた。
それなのに、夜のお誘いとはこれ如何に?
ミチェイルリンベは頬を赤くして私の誤解を解いた。
「違います。そういう意味ではありません。彼は私をトレーニングルームに誘ったのです。一緒にジムで筋トレしようと」
美容のために適度な運動は欠かせない。その考えに基づき、このハーレムではトレーニングマシンを集めたアスレチックジムや運動場それにスイミングプールまであった。ミチェイルリンベはスパイという職業柄、体を鍛えることを自分に課していた。だが、それは仕事とは関係のない、趣味としての面があった。子供の頃から体を動かすのが大好きだったのだ。
宦官のロコボイも、それは同じだった。彼は後宮で働く宦官たちのリーダー的な存在で、新たに後宮へ来たミチェイルリンベに色々なことを教える役目も担っていた。彼女の趣味が筋トレその他の運動だと知ると、仕事が休みの時間帯に運動施設を案内すると約束していた。彼自身、夜や早朝など仕事のない時間はジムでトレーニングをして過ごすとのことだった。
「宦官と聞けば、筋肉のない痩せた人間か、逆に太りすぎている者を連想しがちですが、ロコボイは違いました。ほれぼれするほどマッチョな男性でした」
性ホルモンの関係上、宦官は普通の男性に比べ筋肉が付きにくいのは事実である。しかし、それを補う過酷なトレーニングをすることで、ロコボイは男性的な肉体を保ち続けていたようだった。
「私たちはトレーニング室で筋トレをして、屋内運動場でダッシュを十セットやり、ボール遊びをやってから、それぞれの部屋に戻りました。その後も私たち二人のトレーニングは続きました。一人でやるより、他の人とやった方が訓練は効率よくこなせますから。もう一度ちゃんと言っておきますけど、そういう関係じゃないですから。強調しておきますからね」
否定すればするほど逆に疑ってしまうけれども、それは置いておく。
女間諜ミチェイルリンベは、前述したように、外国からの不法侵入とスパイ行為の容疑で逮捕され革命軍事裁判所で終身刑を言い渡された。刑が確定した直後は重犯罪者用の刑務所に収監されたが、しばらくしてから別の施設へ移された。警備厳重な重犯罪者用の刑務所は囚人が多すぎ、パンク状態となったためである。移った施設もすぐに満員となったので、そこからも移動した。何しろ身の軽い女スパイであり、刑務所から逃げ出すことなど簡単だと思われたようである。だが、彼女は模範囚だった。他の囚人から脱獄を誘われても断り、逆に看守へ密告したので刑務所側から信頼されるようになった。そして逆に他の囚人たちからは恨まれるようになった。そうなると、他の重罪人たちと一緒にしておくことができなくなる。従って、その身柄は現在、軽犯罪者用の刑務所に収監されている。ここならば、私のような異世界から来たノンフィクションライターにも取材許可が下りやすい。刑務所内へのタバコの持ち込みは事前に申請すれば許可されるので、談話室の横にある喫煙ルームでタバコを吸いながらのインタビューとなった。
タバコが手に入らないため、ずっと禁煙を余儀なくされていたミチェイルリンベは、私がプレゼントした三カートンのタバコと高級葉巻五本入りセットを喜んで受け取り、そのお礼として色々な話を語ってくれた。
ミチェイルリンベのインタビューは後ほど書くとして、その前に別の人物の話を記す。インタビューの相手は宦官のロコボイである。
宦官のロコボイこと、本名ロコボイシシス・ビルチミニイは現在、某所に潜伏中である。後宮に勤めていた彼は、そこの女官だったミチェイルリンベと同様に、王宮を攻撃した革命軍に逮捕された。ただし、彼は女スパイと違い、隙を見て逃げ出すことに成功した。そして反革命軍に合流し、革命政府への攻撃を開始している。
そんな状況なので、ロコボイにインタビューした経緯や話を聞いた場所を書くことはできない。
インタビューを初めて間もなく、ロコボイは言った。
「ハーレムが復活する日まで、自分は死ねません。逆に言うと、ハーレムが蘇ったとしたら、もう死んでいいです。それが自分の本望なのです」
これはハーレムの主のセリフではない。ハーレムで働く宦官の言葉なのだ。
ロコボイは反革命軍に合流し革命政府を攻撃していると述べた。その理由はハーレムの復活が目的なのかと問い質すと「イエス」との返事である。
革命政府は王宮を占拠し王国政府を打倒すると、すぐにハーレムを廃止した。そこにいた人間はハーレムのあった王宮の建物から追い出された。位の高かった者は逮捕された。逮捕者は革命軍事裁判所に引きずり出され、ほぼ有罪となった。国民から搾取した金で贅沢三昧の生活をしていた罪は断じて許されなかったのである。
古い社会体制の復活を目指す旧支配者たちによって結成された反革命軍はハーレムを含め革命政府によって破壊された王国の再建を目指している。厳しい監視下に置かれている国王その他の人たちに再び元の暮らしを味わってもらおうと考えているのだ。
反革命軍と革命政府軍の戦いは熾烈を極めている。お互いに敵を許す気になれないようで、捕虜を取らない。どちらの軍隊も、捕らえた敵兵は処刑する。それがお互いの不信感と憎悪をさらにエスカレートさせている。命が幾つあっても足りない、非常に危険な状態だ。
ロコボイはハーレムの所有者ではなく、ただの従業員である。職場を再開したい、ただそれだけの理由で物騒な戦闘に参加しているのだ。
どうして、そこまでしてハーレムを復活させたいのだろうか?
そんなに楽しく素敵な場所なのだろうか?
ロコボイは語る。
「素敵な場所とは言えないでしょう。ですが世の中、そんな場所だらけです。ここは極楽でも天国でもないのですよ。かと言って地獄でもありませんが。人間社会の縮図ですね、ハーレムは。一見したところ、華やかです。裏は汚い。本当に酷いです。それでも、私にとっては価値のある場所です。働くだけの価値と、生きる価値のある時間を私に与えてくれますから。そう言った理由がありますので、戦いに身を投じたのです」
裏側が本当に汚く酷いハーレムという秘密の閉鎖空間では、どんな光景が繰り広げられているのか? ロコボイは実例を挙げた。
「奴隷へのリンチが行われます。些細な失態をあげつらい、虐めるのです。それが女官や宦官たちの最大のお楽しみなのです」
新入りの奴隷を殴ったり蹴ったりするのは日常茶飯事だ。頭から汚物をぶっかけたり、食べさせたり、という不衛生なやり方も好まれるそうだ。もっと複雑な虐め方もある。棺桶を用意して、その中に閉じ込めるのだ。空気穴は開けているので窒息する心配はないけれど、閉所恐怖症の人間は半狂乱になるらしい。もっとシンプルに、手足を縛って床下や地下室に放置する方法もある。そこに生息する数多くの齧歯類や大小様々な虫たちが被害者を餌だと思って齧りつく。そのたびに被害者は怒鳴ったり喚いたり泣き叫んだりと騒がしい。その声を聴いて楽しむのだそうだ。どの被害者の悲鳴が最も良かったかを競うイベントや賭け事も行われていたと聞く。また、齧られた箇所や噛み後の形から物事の吉兆を占う神事があった。鼻がすっかりなくなると良いことが起こると信じられていたそうで、鼻が食べられやすいよう、そこにあらかじめ甘い汁を塗っておくのがしばしば見受けられた、とロコボイは言った。
「他には口唇ですね。これも食べ尽くされると縁起が良いとされていました。恋愛成就や金運上昇が期待できるそうです」
恋愛成就といっても男性は宦官しかいない。女官と宦官の恋愛は成立したのだろうか? ロコボイに尋ねると、こういう返答があった。
「プラトニックなものはありました。ただし、度を超すと罪を犯したとみなされ、処罰の対象となります」
疑似的な男女の過ちを犯した宦官と女官に与えられる刑罰には、一枚の戸板に手足を釘で固定され、風見鶏の代わりに屋根の上に置かれるというものがあった。その他には水車に手足を縛られ水責めされる刑罰があった。背中合わせに括り付けられ天井から吊るされて煙で燻される拷問もあった。何もしていない割に過酷な拷問ばかりと言える。
その一方で、同性間の恋愛に対しては禁止事項がなかった。女官同士や宦官のカップルは大目に見られたのである。手をつなぐアベックは微笑ましく感じられたようで、それをお題にした詩歌と舞曲はハーレム内で大いに流行したという。
「風雅な世界でした」
そう言ってロコボイは往時のハーレムを懐かしがる。その時の彼の表情には憂愁が漂い、失われた世界を心の底から懐古していることが感じられた。しかしリンチが日常風景の後宮を風流と言ってのける精神状態に違和感があるのも事実だ。
宦官のロコボイこと本名ロコボイシシス・ビルチミニイは、どういう生まれ育ちの人間なのか?
この国の生まれではないそうだ。魑魅魍魎や妖怪変化それに怪獣類が数多く生息する国とも言えない辺境の領域から幼い頃に一族郎党と共にやって来たという。
「難民と申しましょうか、経済難民とでも言うのでしょうか。移民とも呼ばれるのでしょうね」
そう語るロコボイは一族の希望の星だったそうだ。何しろ子供の頃から頭が良く、運動神経は抜群で、容姿も優れていた。この神童を守り立て出世させることで、一族全体を盛り立てようという機運が高まったそうだから大したものだ。捕らぬ狸の皮算用と言えなくもないが。
この当時、優秀な貧乏人が立身出世を果たす方法は三つある、と言われていた。それは役人になるか、僧侶になるか、軍人になるか、のいずれかであった。ロコボイシシス・ビルチミニイの一族は、彼を宦官にさせた。それが一番出世する確率が高いと思われたためだ。彼ら異種族にとって役人・僧侶・軍人の道での昇進は困難だとの予想は悲観的すぎたのかもしれない。だが、どれだけ優秀であろうとも、民族や性別そして宗教それから出身地または学閥の問題で出世コースから外される悲劇は起こりえる。その可能性が最も低いと思われたのが後宮で女性たちの世話をする宦官だったのだ。
ハーレムを制する者は宮廷を制し、それは即ち全国制覇である! という理屈に合っているのかそうでないのか判断の難しい謎論理を根拠としてロコボイシシス・ビルチミニイが宦官になる道を選んだのは、彼が二十歳になる前日の早朝だった。短刀を握り締め、自らの男性器を切断し、鎮痛薬と化膿止めの魔法薬を傷口に振り掛けて一昼夜……翌朝には宦官ロコボイが誕生した。後宮の人事を担当する役所の医療技官の審査を経て晴れて正式な宦官となりハーレム入りを許されたのである。
「出世の糸口はつかみました。けれども、その階段を昇るのは並大抵のことではなかったです。ライバルが大勢いましたから。醜い足の引っ張り合いなんてしょっちゅうでした」
新入りの宦官は大抵の場合、徹底的に虐められる。しかしロコボイは、それほど悲惨な目に遭わなかった。筋骨隆々の大男で動きは素早い。若年の頃から刀槍・弓矢・格闘技の訓練を重ねており、その腕前は本職の武芸者に劣らなかった。一対一での戦いに負けた覚えはない。宦官になって力は衰えるかと思いきや、激しいトレーニングを欠かさないことで筋肉量の低下を防いでいる。弱々しい宦官たちが束になっても勝ち目はなかった。
だがしかし、そういう剛の者だからこそ、弱者からの妬み嫉みを集めてしまうのも事実である。ある日ロコボイは、他の宦官たちと共に所用で後宮の外へ出た。王都の郊外まで行く用事だったので、その日のうちに戻らず、一泊してから帰る予定だった。宿泊場所は後宮と取引のある商人が用意してくれた。奇麗な庭のある立派な別荘だった。その商人が用意してくれた酒食を満喫し、満ち足りた気持ちで床に入った。
そこまでは良かった。その晩、彼は寝ているところを襲われた。
その時ロコボイは、夢を見ていたという。彼の一族が故郷にいた頃の遠い記憶が、どういうわけだか知らないけれども急に蘇ってきたのだ。戸口の隙間から斜め四十五度か、もっと急な角度で日差しが差し込んでいる。その光を浴びて小さな男の子が泣き叫んでいる。どんなに泣き喚いても誰も気にも留めない。狂ったように号泣し叫ぶ男の子の近くにいる者の多くは半死半生だった。既に死んでいる者もいる。男の子の両親がそうだった。強力な魔術師で人々から恐れられた父親は体をズタズタに引き裂かれており、傷がなくて奇麗なのは顔だけだったが、それも首の付け根で切断され生首となって床に転がっていた。素手で猛獣を絞め殺す女闘士だった母親は体がねじ曲がった状態で死んでいた。大蛇に絞殺されたのか、魔力によるものか、誰にも分らない。小さな男の子の二つの目から涙がとめどなく流れ続ける。その目は、左右の色が若干ではあるが異なっていた。
それを見てロコボイは、その幼い少年が自分だと分かった。幼い頃から感情が高ぶると右と左の目の色に違いが生じるのだ。右の眼は少々、赤くなる。左の眼は緑がかってくる。夢の中の男の子も、そうだった。夢の舞台となった時代、彼の一族は故郷で栄えていた。それが他の部族の妬みを買った。ちょっとしたいざこざが元になって、大規模な武力衝突が起きた。形勢は彼の一族に不利で、最終的には本拠が攻略され勝負は終わった。その落城の記憶が夢となって蘇ったのだ。故郷を追われた彼らは、この国へ移り住んだ。生き残った一族郎党の希望が宦官ロコボイだったという話は既に触れたし、現時点ではどうでもいい。
夢の中のロコボイ少年は、いつまで経っても泣き止みそうになかった。見ている方が切なくなるほどに。切なすぎて、いつしか胸が苦しくなる。重苦しくなる。息苦しくなる。耐えられないほどに。
どうしてこうも胸が重いのだ? とロコボイ青年は眠りながら首を傾げた。首を傾けたからといって何がどうなるわけではなかった。それにしたって、体が重たすぎる。金縛りか? と霊感ゼロの身ながら考えた。寝返りを打とうとする。だが、体は動かない。体が強張っている。
自分が今、遠い故郷にいた子供時代の夢を見ていることは分かっている。眠ってはいるが、意識は確かにある。心の中の何処かが覚醒しているのだ。体が強張っているのは、悲惨な記憶が息を吹き返したせいだろう。そうは思うのだけれども、それだけではない感じがした。その間にも、胸はますます重くなり、呼吸は苦しくなってくる。
ロコボイは寝返りを打とうと、身動ぎした。それでも動かない。もう一度。同じことだった。上半身も下半身も、体中の筋肉全体が強張って動かないのだ。彼は目を開けた。暗闇の中で何者かの手が自分の首に掛かっているのが見えた。それがグイグイと、渾身の力で締め付けてくる。カッと大きく目を見開いた。両手と両足も何者かが抑え付けている。動けない理由はこれか! と彼は気付いた。叫ぼうとしたが口を布か何かで塞がれていた。無理に叫ぼうとしたら誰かが布切れを口の中にさらに押し込んできた。それだけで窒息しそうになるほどに。
誰かの声が聞こえた。
「手助けが要らないのなら、もう引き上げさせてもらいますよ」
男の声だった。別の声が聞こえた。
「そうですね、もうすぐ息の根が止まると思いますので、大丈夫かと存じ上げます」
それも男の声だった。他の男の声も聞こえた。
「先生、遅くにお呼び立てして、本当に申し訳ございませんでした」
「いえいえ、それでは失礼します」
引き戸を開けるカラカラという音が聞こえた。ぴしゃりと閉める音も。それから別の男性の声が聞こえた。
「いえいえ、こちらの皆さんには毎度ごひいきにしていただいておりますので。何かご用事がございましたのなら、いつでもご連絡下さい」
その声にロコボイは聞き覚えがあった。夜の宴会の席で、そう言いながら自分に酌をしてくれた男の声に似ていた。その時も、同じような台詞を言っていた。あの男は……ここの別荘を用意してくれた商人の番頭だ! と彼は思い至った。
これで今ここで何が起こっているのか、自分の身に何が起きているのか、ロコボイは察しが付いた。闇の中で人殺しが行われようとしているのだ。殺そうとしているのは他の宦官たち、そして殺されそうなのは自分自身だった。別荘を用意した商人は、殺人への協力を依頼されたのだろう。もしかしたら、この件の詳細は知らされていないかもしれない。殺害現場を提供しているだけなのだ。実際の細かいところは番頭が取り仕切っている可能性があった。しかし、そんな話は些細なことだ。何しろ今、自分は殺されかかっているのだから。
暗がりに目が慣れてきた。この首を絞めている人間の顔が見えてきた。エベフミンジダコサという名の宦官だった。でっぷりと太った男で、こまごまとした可愛らしい小物の収集と手芸が好きな好人物だった。ロコボイとの関係は、比較的良好だった。新入りに対し、柔らかな態度で接していた。だが、それは見せかけだけだったようである。
目を血走らせてエベフミンジダコサは言った。
「死ねロコボイ。こっちは毎日お前の臭い息と腋臭で迷惑しているんだよ。ここで死ね」
ロコボイは二重のショックを受けた。奥歯を噛みしめる。前歯の先に何かが当たった。誰かの悲鳴が聞こえた。口に布切れを押し込んでいる人間の指を噛んだのだ。
口の中に入っている人間の指をロコボイは思いっきり嚙んだ。怒りに任せ噛みちぎる。指を喰いちぎられた男は甲高い悲鳴を上げた。布切れに加わっていた力が消えた。
ロコボイは舌で布と噛みちぎった指を分けた。その指をエベフミンジダコサの右の眼球に向けてビュッと吐き出す。右の目玉に指が当たった。エベフミンジダコサがギャッと叫んでロコボイの首から両手を離した。その体がのけぞる。ロコボイは全身の筋肉を全力で一気に弾かせた。彼の体の上にまたがっていたエベフミンジダコサが背後に引っ繰り返って倒れた。手足を抑えていた力が弱まった。ロコボイは上半身を起こした。右の腕を抑える手をガブリと噛む。良い歯ごたえがあった。右腕を抑える力が消えた。まだ口の中に入っていた布切れごと齧り取った肉片を左腕を抑える人間の方へ向けて吐き出す。それは相手に当たらなかったが、フェイントとしては有効だった。自由に動かせるようになった右腕を振り回す。飛んできた肉片を避けようと態勢を崩していた相手は、ロコボイの右の拳を顎の先端付近で受けた。顎の骨の先端が砕ける手ごたえを感じ、続いて左腕が自由になった。その瞬間、ロコボイは力任せに体を捻った。両足からも手が離れたらしく、四肢が自由に動かせるようになった。ロコボイは寝床から跳ね起きた。近くに手を抑えている宦官がいた。ティージエオミリという青年で、ロコボイと同じ頃に後宮で勤め始めたから、ほぼ同期と言えよう。ロコボイよりも気が弱かったので、虐めのターゲットとなることが多かった。ロコボイは、その都度、可能な範囲でかばっていたのだが、その心遣いには何の意味もなかったようである。指を喰いちぎられてパニックになったティージエオミリは壁際の棚に飾られていた皿を手に取った。部屋の入り口付近にいた番頭が悲鳴を上げた。
「その皿は高いんです! 手荒に扱わないで下さい!」
その声が聞こえていなかったようで、ティージエオミリは皿を投げた。ロコボイは飛んできた皿を避けた。皿は彼の後方へ飛び、高価な窓ガラスに命中、両方とも割れた。
それに懲りずティージエオミリは壁に備え付けられた棚から花瓶を取って投げた。
「それも高いんです! 壊したら私がご主人様に怒られます!」
番頭は金切り声を出したが時、既に遅し。高価な花瓶は反対側の壁を彩っていた貴婦人の肖像画を水で汚してから砕け散った。
それ以上の蛮行をロコボイは許すつもりはなかった……わけではないが、結果的にそうなった。正気を失って飛びかかって来たティージエオミリの腰を払ってブン投げる。受け身を取らなかったティージエオミリは体をしたたかに打ちつけて悶絶した。
右目を両手で抑えたエベフミンジダコサと、血の滴る腕を抑える他の宦官へロコボイは言った。
「続きをやりたいなら前に出てくれ」
そのとき誰かが廊下から室内へ入って来た。引き戸を開けて月明かりに照らされた部屋の中の情景を見る。
「何か起きたのか?」
誰も何も答えない。尋ねた男は困惑した声で続けた。
「さっきの話だと、すぐに済むようなことだったが」
自分が言う筋合いではなさそうだけれども、ロコボイが答える。
「諸般の事情で簡単に済まなくなった。取り込んでいるので、これ以上の質問には答えられない」
その男は質問の矛先を変えた。
「殺しに失敗したんですか? 自分は、どうしましょうか。しくじったようですけど、自分は、その場合にお手伝いするのですか、と先程は聞いたのですが」
尋ねられた番頭の男性はしどろもどろの口調で答えた。
「先生、あのですね、いえ、その、私も、どうしたら良いのか……」
埒が明かない、とロコボイは思った。入って来た男に尋ねる。
「お前は何者だ?」
男は眠そうな様子で、顔をくしゃくしゃにしながら答えた。
「この商店で用心棒をしている者だ」
番頭が言い添える。
「他国からいらした戦士の先生でございます」
戦士の先生を呼ばれた男は片手をヘナヘナと左右に振った。
「戦士の先生はよしとくれ。恥ずかしいよ」
番頭は大袈裟な口調で言った。
「そんなことはございません。先生は素晴らしいお方でございます」
「色々な異世界を流れてきただけだ。ところで、どうする? こっちの宦官たちは戦意を喪失している。頼まれたら助太刀をするつもりでいたが、その必要はもうないんじゃないのかな?」
戦士の先生と呼ばれる異世界を流れ歩いてきた男は宦官たちに目で尋ねた。誰からも反応がなく、俯き、あくびをした。
「それじゃ、もう寝る。お休みなさい」
戦士の先生は去った。ロコボイは口を開いた。
「言い出しっぺは誰なんだ? そいつと自分が一対一で勝負すればいい」
そう言ってみるが、誰も挑発に乗って来なかった。ロコボイは馬鹿らしくなった。
「かかって来ないのなら、もう寝る」
ロコボイは先ほど殺されかかった寝床に横たわった。そのまま高いびきである。翌朝、目が覚めると他の宦官たちは消えていた。一人でハーレムに戻った。そこにも一緒に出掛けた宦官たちの姿は見えなかった。それ以降、彼らと顔を合わせたことはない。後日、別荘を貸してくれた商人のエヌ氏とは顔を合わせる機会があった。例の番頭は、高価な室内装飾品に損害を与えた犯人を消えた宦官たちだと説明した様子である。その説明で間違いはない。罪の償いを恐れ、彼らは失踪したわけだ。
この時ロコボイから聞いた話を、筆者は別の人物からも聞き、裏付けを取った。
その人物とは、話の最後に登場した商人エヌ氏である。とても昔の出来事だったが、彼はよく覚えていた。ロコボイが事件の後、宦官たちから恐れられ後宮内で独自に地位を確立するに至ったからだろう。
「まだ若かったが、出世するという気がした。後宮にピッタリの人間だった。というより、ここしかないという意気込みが強かったんだろうな。俺とは、そこが違う。でも、どちらが正しいとか、どちらが良いとか、そういうのは決められない。決めつけられない。俺みたいなコウモリにとっては、難しいんだ、あいつのような生き方は」
自らをコウモリにたとえるエヌ氏とは一体、何者なのだろう。王国の御用商人として後宮とも取引をしていた彼は革命後、革命政府とも普通に商売をしていた。王政時代よりも繁盛している様子である。社会の混乱を金儲けの種にしているとの批判はあるけれども、どこ吹く風だった。彼のインタビューから、その雰囲気が感じ取れるかもしれない。
「後宮の人間たちは皆、ケチンボだった。王国の看板を盾に取って、品物の代金を踏み倒そうとするとか、ザラだった。それは今の革命政権も変わらない。ただし、例外はある。どちらの側でも、金払いの良い人間はいる」
それが後宮での序列で一番と二番の人物だ。しかし、この序列は曖昧だ。それぞれ第一夫人(正夫人)と第二夫人と呼称されているのだけれど、この二人は一心同体なのである。彼女たちは、体の一部が結合した奇形の一卵性双生児だ。私が生まれた別の世界ではシャム双生児と呼ばれている。
彼女たちの立場は、この国の住人でないと理解が困難かもしれない。この二人は、王国時代においては国王の第一夫人と第二夫人であり後宮の主だった。そして現在は革命政権に法的な根拠を与える神聖な存在である。
その特殊な地位を、私の筆力では説明し難い。王国の元御用商人にして革命政府の財政総監を勤めるエヌ氏の言葉を借りよう。
「王権神授説というものがある。王の権力は神から授かった神聖なものであり、王国は神の意志を表しているという考え方だ。私たちにとって、それは自然な考え方だ」
その昔、この世界の創造主であり王家に建国の権利を授与した神は、神との契約の代理人として地上に体が結合した二人の女性を遣わした。その女性は不死か、あるいは著しく長命な生命体だった。彼女たちは神の命令として歴代の国王の第一夫人と第二夫人となった。それが代々続いてきたのである。
「いうなれば彼女たちは神の代理人だ。王権神授説の体現者だ。これは誰にも否定できない。ずっと昔から生き続ける神秘的な存在だからな。人間ではないのは確かなんよ」
創造神が王家の先祖に王国創設の根拠を与え、その証拠として地上に遣わした天使が第一夫人と第二夫人である……という話を、大方の住民は信じてきた。だが近年、その意識に変化が見られるようになった。建国の権利を神から与えられたにしては失政続きだ、との非難の声が高まってきたのだ。
たとえば新大陸との関係性である。新大陸は当初、ここ旧大陸の植民地であった。それがいつしか独立され、遂には経済力の点で逆転された。今では向こうの方が繁栄しているのだ。王国の経済は赤字が続いているというのに。こちらには創造主が地表に下された二人の結合女性がいて、向こうにはいない。神の恩恵があるのは自分たちの国だと思っていたが、神の代理人が不在の土地の方が儲かっているのでは? そんな疑問が湧いてきたのである。
その疑問は、やがて貧困や差別といった社会問題に対する政府の無策への憤りや不満へ変わっていった。さらに、王国を長く見守っている第一夫人と第二夫人の能力への不信感が生じるようになった。
そんな疑念の声に当人たちが反応した。彼女たちは秘密裏に、この御用商人を後宮に招いた。そして経済について様々な質問をした。
その中で、御用商人は第一夫人と第二夫人に関する理解を深めた。彼が新たに知った事実を、本人の口から語ってもらおう。
「第一夫人と第二夫人の両方とも、経済のことは何も知らなかった。経済オンチとでも言うのかな。だけど、知ろうと努力はしていた。後宮の女官も宦官も経済学のイロハも知らないってんで、わざわざ俺を後宮に呼びつけたくらいだからな」
その努力が実ったというにしては残念な学習結果が出た。二人は経済学を理解できなかったのである。
「彼女たちが言うには、だ。自分らは学校の勉強が苦手だったから、こういうの無理、とのことだ。どうやら二人は元の世界では学問の苦手な女の子だったようだ。そんな二人が、いわゆる百合の関係となった。周囲に知られた。引き裂かれそうになった。離れ離れになりたくないと思い、心中した。それを憐れんだ神が、二人の体を結合させて、この世界に転生させたらしい。そして異世界の王家に嫁入りさせたんだとさ。第二の人生を二人一緒に長く生きられるようにと、不死の体にして」
嫁入り先でも生き生きと頑張ってね! と祝福して送り出した神が何者なのか、第一夫人と第二夫人の二人とも知らなかった。この王国をどうしたらいいのか、それも分からなかった。何も言われていないのだから、自分たちで考えるしかない。幸いなことに、彼女たちの脳は分離していた(二人の結合個所は、ここには表記不能な身体の一か所である)。二つの脳で考え出した結論が、王国を解体し、新たな体制の国家を造る! だった。
実は、これを考えたのは彼女たちではない。王国の打倒を唱える過激な民主化運動が草の根レベルで芽生えてきていた。第四夫人ノバチェリーテガの兄ヤオーマカハーン将軍は、民主化を求めるデモ隊を鎮圧することで出世の糸口をつかんだと前に述べたが、叩き潰しても叩き潰しても、民主化を唱える共和主義者は湧いて尽きるところを知らなかった。ヤオーマカハーン将軍は民主化運動弾圧の責任者として、国中の至る所に血の雨を降らせていた。それでも状況は良くならない。むしろ革命を求める声は広がり続けていた。
王国の敵を倒せない兄への不満がノバチェリーテガの中に積もり積もって寝床の中で罵倒となって噴出したとしても、むべなるかな。
王国の元御用商人にして革命政府の財政総監を勤めるエヌ氏の話に戻ろう。
「第一夫人と第二夫人の話を聞いたときは驚いた。王国に引導を渡すってんだからな」
国家財政の破綻や農政の失敗による飢餓が起こり得るという警告は経世済民の学者たちから出されていた。そうなる前に政治体制の刷新を急ぎたい。現在の国王を中心とした政府首脳には引退してもらい、新たな執行部への権力移行を云々……と第一夫人と第二夫人は言った。エヌ氏は話の展開についていけなかった。
「ちょっと待ってくださいと俺は言った。現在の国王を中心とした政府首脳には引退してもらい、新たな執行部への権力移行と言っているが、それはクーデターだと。そんなことをやったら政治は大混乱で、政局がどう転ぶか分からない。あなた方は王国にとって単なる王妃ではない。この王国そのものを生み出した、神聖な国母と言っていい存在だ。それがこんなことを言ったと知れたら、何がどうなるか分からない。もっと考えてから物を言え、と俺は思ったし、実際に口に出して言ったかもしれない」
実際に口に出して言っていたと証言する者がいる。
女間諜ミチェイルリンベだ。
彼女の雇用主である第三夫人バーリィバーナムビーは、第一夫人と第二夫人の元へ密かに顔を出すエヌ氏に気付き、その行動を監視するよう指示を出していた。その命令に従い、女スパイは第一夫人と第二夫人の部屋の天井裏へ侵入した。そして上記したエヌ氏の発言を耳にしたのである。
「どうかしていると思いました。どいつもこいつも。神の代理人であるはずの第一夫人と第二夫人が神から政治を委託された国王の権力を簒奪しようとしていて、その神の代理人に対し、金はあるけどただの御用商人であるエヌ氏が考えて物を言え、と人をバカしたような言い方をするのです。これはおかしい、異常な事態が起こっていると確信しました」
そう語るミチェイルリンベは今、刑務所を出て、海沿いのリゾート地に建つ高級ホテルで生活している。革命騒ぎの混乱が続いているけれど、この辺りは落ち着いている。新大陸の資本が経営するホテルが林立したリゾート地なので、新大陸国家の軍隊が警備のために駐留しているし、沖合には軍艦が停泊している。革命軍も反革命軍も手出しはできない。彼女はバーリィバーナムビーの実家が用意した客船で出国を予定している。バーリィバーナムビーの実家に関係しているため釈放された虜囚は他にもいるが、高級ホテル住まいなのは彼女だけだ。
この好待遇は、ミチェイルリンベが第三夫人バーリィバーナムビーのために大変よく働いたお礼なのだろう。第一夫人と第二夫人そしてエヌ氏の三者会談で聞いた話を、彼女はすべて雇い主に報告した。
話を聞いた第三夫人バーリィバーナムビーは魂消た様子だったそうだ。とてもではないが信じられない、何かの間違いではないか、と何度も念を押したという。それはそうだろう。いうなれば、これは上からのクーデターだった。尊ばれ敬われる地位ではあるが、実際の政治には関わらない神聖な存在である第一夫人と第二夫人が、国王から権力を奪おうというのだ。
「バーリィバーナムビー様は混乱しているご様子でした。ですが、私の報告を続けて聞いているうちに、落ち着いてきたように見られました。状況を受け止め、自分が何をなすべきか考え始めたのでしょう。ですが、まだ時折り、信じられない、そんなのありえなーい、マジで? などと独り言を仰っておられました。特に、第四夫人ノバチェリーテガ様を代理国王に任命したいと第一夫人と第二夫人のどちらか、もしくは両方が希望を述べられたときは顔色が変わるほど驚かれました」
これが事実だとすれば、第一夫人と第二夫人の頭は完全にトチ狂っていたと言って構わないだろう。第四夫人ノバチェリーテガは頭脳明晰である。だが政治の素人だ。この難局を乗り切るだけの手腕があるとは思えない。
この発言が事実であるかどうか、エヌ氏に聞いてみた。そんな話があったかな、とすっとぼけられた。私は別の人物から話を聞いて事実確認をした。盗賊その他の怪しい者を捕らえるため後宮の天井裏に夜間だけ放たれる大きな蜘蛛の仲間から話を聞く機会に恵まれたのだ。正確に言うと、その生物は蜘蛛の仲間ではない。跳ね跳びカエル人と呼ばれる異世界からの来訪者である。これは第一夫人と第二夫人のペットというか二人の守護精霊というか、何とも言い難い正体不明の生物だ。
跳ね跳びカエル人は言った。
「商人のエヌ氏は絶対に反対だと言った。しかしイースレクイとベルガムスシュカ(第一夫人と第二夫人の名前)は諦めきれなかった。二人がノバチェリーテガの正体に気付いていたためだ。ノバチェリーテガは異世界から来た聖女だった。彼女の聖なる力をもってすれば、王国は持ち直せると二人は信じていたのさ」
疑問を抱かずにはいられない。ノバチェリーテガが異世界から来た聖女だとしよう。それならば、その力で王国を建て直せば良いのだ。国王から実権を奪い王国を混乱させるようなショック療法は不要である。
その事情を跳ね跳びカエル人は、こう説明する。
「国王に溺愛されて、あまりにも愛されすぎて、感覚が鈍ってしまったんだとさ」
第一夫人と第二夫人ことイースレクイとベルガムスシュカは、エヌ氏に反対されたアイデアを捨てきれなかった。そこで第四夫人ノバチェリーテガを自室に極秘で招き、代理国王に任命したいと伝えた。ノバチェリーテガは断った。愛する国王陛下を裏切ることはできないと。
その頃になると、王国社会という鍋の中が煮詰まり、黒く焦げて、灰色と黒の煙を漂わせるようになっていた。第四夫人ノバチェリーテガの兄ヤオーマカハーン将軍は反体制派と見なした人間を片っ端から逮捕し、街に現れるデモ隊を警察に鎮圧させ、険しい山中に逃げて立てこもった民主派の山岳ゲリラに対しては軍隊を派遣し討伐させていたが、どれも努力が実を結ばず、王政非難の声が燎原の火の如く燃え盛り巷に広がっていた。
前国王の寵臣であり寵姫ノバチェリーテガの兄であるヤオーマカハーン将軍の解任は国王の本意ではなかったが、誰かが責任を取らねばならない状況であった。だが、その決断は逆効果だった。親国王派が多い王都でも国王退位と王政廃止の声が上がりデモ隊が抗議運動を始めるようになる。ヤオーマカハーン将軍の免職で警察や軍隊の士気は低下した。重大な局面に入ったことを第一夫人と第二夫人ことイースレクイとベルガムスシュカは悟った。後宮にエヌ氏を呼びつける。
エヌ氏には反体制派とのパイプがあった。二人は、そのコネクションを利用しようと考えたのである。
この三者会談の概要は今もって秘密だ。一般的には、第一夫人と第二夫人ことイースレクイとベルガムスシュカが反体制派に対し、国家統治権を委任することを決定した会談だとされている。王権神授説が国家統治権なるものに模様替えしたわけだ。
その頃、国王は自らが陣頭指揮を執って警察や軍隊を動かし、反体制派を壊滅させようと決意していた。温厚な君主として知られる人物で、残虐な行為には批判的な態度を示すのが常だったが、そうも言っていられなくなったのだ。
第四夫人ノバチェリーテガは国王に意見した。無益な殺生はしてはならないと、まさに聖女様の意見を述べたのである。
国王は反論した。このままでは王国は滅びる。どれだけ犠牲を払おうとも、この王国を守らねばならない。そう言って蛮行を配下の者たちに命じようとした。
「そうしないと、私はお前を失ってしまう。国王ではなくなった自分から、誰もが離れていく。何もかもが私の手から滑り落ちていくのだ」
そんなことはございません、とノバチェリーテガは言ったらしい。それで国王は徹底的な弾圧命令を出さなかったと一部では信じられている。国王が命令しても警察や軍隊が鎮圧を拒否したのだという説もある。どちらが正しいのか、それは現在のところ判明していない。ノンフィクションライターである私が本作品を書いた理由の一つは、事実がどうだったのか知りたいためなのだが、当事者である国王とノバチェリーテガに取材できないのが悔しい。二人は現在、とある場所に革命政府によって幽閉されていると言われている。反革命軍に奪回されることを警戒し、居場所は明らかにされていないのだ。実は殺されている、との説がある。
それは違うと跳ね跳びカエル人は言う。
「イースレクイとベルガムスシュカが反体制派に官軍のお墨付きを与えた際、条件を出した。王国のために働いた者たち、そして王宮に暮らす国王その他の人間と後宮の人々の助命が絶対の条件だと。反体制派は、その条件を受け入れた。迷信深い一般大衆は神の代理人である第一夫人と第二夫人を神聖視している。二人が王国に見切りをつけ、革命側に錦の御旗を掲げるよう指示を出したとなれば、去就に迷っている有力者は自分たちの側に就くと考えたのさ。実際、その通りだった」
反体制派は王宮を占拠した。前述したようにハーレムは閉鎖され、そこで暮らしていた者たちは追い出された。例外がある。イースレクイとベルガムスシュカは、その後も居座った。跳ね跳びカエル人は元後宮に居座る二人を守るため、今も夜になると天井裏へ行く。自分の行為に何か意味があるのか、と疑問に思わないこともない。そんな日は屋根裏へ登らない。夜の王都、否、元王都を散策する。そこで私たちは邂逅した。そして後宮の話を聞くことができたのである。
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