第2章 29話 遠い昔に

「……風花っ」


 夏澄が顔をあげた。ゆっくりと弧を描いて、風花のとなりに跳躍する。


 続いて、『ローフィ』と、緊張を孕んだ声でいった。


「ローフィ?」

「そんな名前で、呼ばれていた記憶はない?」

 夏澄は瞳を伏せて聞いてくる。水色の髪の向こうの瞳は、壊れそうに揺れていた。


「記憶って、飛雨くんに消された記憶のこと?」

「ううん、それよりずっと前。遠い昔……」


「う、ううん。ないと思うけど」

「本当に? よく思い出して」


 意味は分からないが、夏澄が彼にとって、とても大事なことを訊いているのは分かる。


 風花は目を伏せて、ゆっくり考えてみた。だが、そんな記憶はなかった。


「ないと思うよ……」


 すーっと、夏澄の瞳から表情が消えて行く。

 青い瞳に影が差した。冷たい泉の底のような、静かで深い色だと感じた。


 やがて、夏澄はとてもやわらかく微笑んだ。いつもの優しげな、でもどこか凛とした、夏澄らしくない笑顔だった。


「どうしたの? 夏澄くん」


 夏澄は風花の言葉に答えない。

 両腕で風花を横抱きにし、さっきの大木まで跳躍した。風花に背を向けると、夏澄の体は霊力の水色の光に包まれる。


「ごめんね、風花」


 急に、夏澄の姿は見えなくなった。

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