大人の世界

 すっかり日が暮れたころ、ノボルたちは麓の町まで来ていた。山と田んぼに囲まれた、小さな町だ。

「ソーハさんは、好き嫌いは無いんだったよな」

「はい。だいたい何でも好きです」

 そろそろ晩ご飯だ。今日はノボルがお気に入りの店に連れて行ってくれる。それがどこなのか、ソーハは知らない。

「おっと、着いたぞ。ソーハさん」

 ノボルが足を止めたのは――

「え?」

 居酒屋だ。

「こういう店、来たことあるか?」

「いいえ。あの、ボク、未成年ですよ。それに自転車も運転するし――」

「もちろん俺だってクルマで来てるからな。飲む気はないよ」

 この町で飲食店は少ない。まして夜までやっている店は非常に少ない。というより、ここくらいだ。

 しかし、

「食事だけでも楽しいもんだぞ。意外と美味いんだ。居酒屋飯」

 そう言うと、ノボルは手慣れた様子で引き戸を開け、のれんをくぐった。


「いらっしゃーい。おお、ノボルちゃん。久しぶり。大きくなったねえ」

「ちゃんはやめてくれ。あと身長は変わってないよ。おばちゃん」

 店から出てきたおばちゃんは、ノボルの肩を叩き、あっはっはと豪快に笑い、そして後ろのソーハに目を向けた。

「ツレかい?」

「ああ。今日は飲めないんだが、いいか?」

「もちろんだよ。あんたー。あんたーノボルちゃんがツレを連れて来たよ」

 おばちゃんが厨房の奥に呼びかける。厨房の奥から顔をのぞかせたご主人は、ほう、と意味深げに頷いてから顔をひっこめた。

「いや、そういうツレじゃねーから」

「またまたあ。照れなくていいんだよ。コレでしょコレ」

「もしコレだったらこんな店連れてくるかよ」

「まあ、酷い。ノボルちゃんグレちゃったの? おばちゃん悲しい。よよよよよ……」

「はいはい。2名で。座敷あいてる?」

「全席あいてるよ。閑古鳥と焼き鳥しかいないからね」

「この店大丈夫かよ。金曜日だぞ」


 愉快なおばちゃんが厨房へと引っ込んでいったタイミングで、ノボルはようやく振り返った。

「悪い悪い。昔からあんな感じの人なんだ。……ソーハさん?」

「は、はいっ」

「固まってたみたいだけど、大丈夫か?」

「はい」

「座敷でいいか?」

「はい」

「……緊張してるのか?」

「……は、はい。こういう大人のお店って、本当に初めて来ました」

 それは、ノボルとしては嬉しい限りだ。緊張させてしまったのは誤算だが、初めての雰囲気を味わってもらえたなら、ちょっと大人ぶった甲斐がある。


 座敷はいいものだ。散歩で疲れた足を、窮屈なブーツから解放してやれる。ソーハもビンディングシューズを脱いで、少しだけ緊張を解いた様子だった。

 まるで半個室のようになった座敷の奥。その壁側の席に、ソーハを座らせる。注文の都合、ノボルは手前に座っておきたい。

「ノボルちゃーん。これお通し。それからこっちはサービス。あとこれメニューに無いんだけど、ちょうどあったから、食べる?」

「食べる。ありがとう。でもちゃん呼びはやめてくれ」

「んで、ご注文は?」

 注文前から豪華になってきたテーブルを見ながら、ノボルは少し考える。

「とりあえずウーロン茶と……ソーハさんは何飲む?」

「え? あ、ボクも、ウーロン茶で」

「それと、フライドポテトと、いつものアレ」

「はいよ。ウーロン茶ふたつと、フライドポテトね。若い子はフライドポテト好きねー」

「そういうもんか?」

「そうよ。ウチに来る若い子みんな頼むもん」

 まあ、から揚げと並んでハズレのない選択ではある。

「ソーハさんも何か食べたいものがあったら、遠慮なく頼んでいいぞ。ゆっくり追加注文していくのも居酒屋の醍醐味だし、な」


 壁に所狭しと張り出されたメニューやら何やら。

 ずっと流れっぱなしの有線放送。

 出窓に置かれた謎の置物。

「……」

 ソーハは、そもそも外食する頻度が少ない。たまに行く場所も、家族と一緒ならファミレスが、友達と一緒ならファストフードが定番だ。一人の時はコンビニで済ませることが多い。

 本当に、こういう雰囲気は初めてで、場の空気に飲みこまれそうになる。

 なので、

(やっぱり、ノボルさんって大人だなぁ)

 などと、この場に慣れている彼に憧憬を抱く。そもそもノボルだって親に連れてこられたことが何度もあるだけなので、別に大人なわけでもないが。

「ソーハさん。俺、焼き鳥は串に刺さったまま食うのが好きなんだが、ソーハさんは?」

「あ、はい。えっと、ボクも……」

「そりゃよかった。やっぱこれだよな」

 いわゆる串から焼き鳥を外すかどうか論争。どうやらお互いに意見が一致しているらしい。サービスで出してもらった焼き鳥の串に、ソーハもそっと手を伸ばす。

「いただきます」

 そっと口に含んだだけでも、濃いめのタレがじんわり沁みる。齧り取って噛み締めると、脂がのった鶏肉の旨みが、口の中を支配する。

 これほど味の濃い料理を、白米のおかずとしてではなく、間食としてでもなく、メインで食べる。というのも、ソーハとしては珍しい体験だった。


 その後もいろんな料理を堪能し、語り尽くそうと思えばどこまでも書き連ねてしまいそうなほどの味と食文化を教わりながら、意外と二人の話は弾んだ。

 普段は学校で何をしているのか、とか、次に歩きに行くならどこに行こうか、とか。

 ソーハが乗っている自転車の話になり、彼女のコレクションが6台もある話になり、ノボルが少しロードバイクに興味を示したあたりで、だいたいお腹もいっぱいになった。


 ただ、ついぞ……

 ソーハが女ではないことに、ノボルは気づかず、

 ノボルが自分を女だと誤解していることに、ソーハは気づかないままだった。

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