湖畔の森

 夏も近づくある日のこと、ソーハは楽し気に、通学用のロードバイクを走らせていた。

 初めてノボルと会った日に使っていた自転車ではない。そっちはサイクリング用にカスタムした車体で、こっちは通学用。荷物を積めるし、タイヤも少し太い。

 よく「似たような自転車ばっかり買って」と言われるが、本人にとっては全く違う車両だ。似ているのはハンドルだけだとも言える。


 さて、そんなソーハが今回、学校帰りに制服のまま向かう場所と言えば……

「ノボルさーん。お待たせしましたー!」

 彼との待ち合わせ場所だ。『一緒に散歩に行きたい』と頼んでみたら、ノボルから嬉しい返事が来た。

「よう、ソーハさん。学校お疲れ」

「お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」

「はいよ」

 この季節、ノボルも半袖のポロシャツにツータックチノというラフな格好でやってきた。今日は本格的な登山でもないので、特に荷物もない。

「ところでソーハさん。学校からここまで、本当に自転車で大丈夫だったのか?」

 と、ノボルは心配する。ソーハが通っているらしい学校からここまで、おおよそ30キロは離れている。一応『学校の近くまで迎えに行こうか?』と聞いたのだが、ソーハは現地集合を望んだ。

「大丈夫です。鍛えてますから」

「そういう問題なのかよ……いや、ソーハさんならそういう問題か」

 彼女(?)の鍛え方は、ノボルもよく知っている。見た目の細くて柔らかそうな体つきに似合わず、化け物みたいな肺活量と持久力を持っている人だ。

「それじゃ、楽しもうぜ。あっちだ」

「はい」



 夕暮れの涼しさを、湖が運んでくる。風がソーハの長い髪を揺らし、柔らかそうな頬をくすぐった。

「わぁ――」

「最初からクライマックスって感じだな」

 向こう岸の山陰に、夕日がそっと近づいている。空は西側だけが赤く、東からは夜が近づいていた。

「このまま、湖に沿って進むんですか?」

「いや、今日のコースは、ここから森に入っていく。そんで小さな峠を越えた先に、集落があるはずだ。そこで晩飯にしようぜ。おごってやるよ」


 ソーハには事前に『時間はあるか?』と聞いている。ソーハは迷わず、『いつまでも』と……何なら『一晩でも』と答えていた。仮にも年頃の娘を夜中まで外出させるのは、両親が心配しないかと疑ったが……

(ソーハさんのご両親。わりと奔放なんだな)

 と、相変わらずソーハの性別に言及しないのがノボルである。



 日暮れが近づいた森は、とても暗い。手元が見えなくなるような時間ではないが、ノボルは念のためにライトを持ってきている。

「暗い森って、風情がありますね」

「おお。ソーハさん、分かるタイプか。なかなかこの良さを理解する人が少なくてな」

 念のためにクマよけの鈴を持ってきているが、それに紛れて虫の声や、風の音が良く聞こえる。遠くには野生動物が歩くような音が、ガサガサと聞こえていた。タヌキか、はたまたキツネか。

 こういう場所が恐ろしいと感じる人もいるようだし、警戒心があるのはいいことだ。しかし同時に、それを楽しめる感性もあった方が人生は楽しい。ノボルはそう考えている。

「もうちょっとで登りも終わるみたいだな」

「そうなんですか?」

 ソーハは少し寂しそうな表情を浮かべた。

「そんな顔するなよ。まだまだ下りもあるし、何なら晩飯を食った後は戻りもあるんだ。まだ往路の中間くらいだぞ」


 ソーハにとって歩くというのは、映画の世界に入り込むようなものだ。自分の知らない場所を、自分自身で進んでいく。好きな時に足を止めて、好きなだけ時間を過ごしていい。のんびりでもいいし、もちろん急いでもいい。

 そんな世界に、自分と同じような人がいたら、それはとても心地よい。

「あ、あれ、さっきの湖ですよね」

「ああ、そうだぞ。結構高いところまで登ってきただろ」

 峠の上から見下ろす湖もまた、とても綺麗だ。暗くなりかけた空に、山の稜線を浮かばせる光。

 夕日とは違う光も見える。あれは遠くの街の明かりだ。空を覆う雲に反射して、ぼんやりと遠くまで届く赤い光。こんなにも遠い湖の向こうまで、しっかりと届いている。

「とっても、綺麗……」

 狭い道路に設けられた待機所。もし自動車で通っていたら、ただ対向車とすれ違うだけの場所。歩いてきたからこそ見つけられた、木々の間にちらっと顔をのぞかせる景観だった。

「……」

 お互いに、カメラを構えたり、スマホを取り出したりはしない。この暗さは通常のISO感度で捉えられるものでもないし、距離的にも光が届かないからだ。加えて、通常のコントラストでは暗い所の微細な違いが出せない。

 なので、心行くまで味わって帰る。この景色も、空気も、高揚感も、そのまま持ち帰る事が出来ない宝物だ。

 ただ……

(本当に、楽しそうに眺めてるな)

 目を輝かせて、わずかに頬を染めるソーハ。

 その横顔だけでも持ち帰れないものかと、ノボルはついそんなことを思い、スマホのカメラを起動しそうになる。

 まあ、さすがに本気で撮影する気はない。

「――そろそろ行くか? ソーハさん」

「そうですね」

 自然と、下り坂はスピードが出る。歩幅が少しだけ、いつもより広くなる。

 それでも時間はゆっくり進み、景色はすぐには変わらない。

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