また今度の約束

 コポコポと、お湯が沸く音。コォオオと、ガスバーナーが唸る音。

 それらが、後部座席よりさらに後ろから聞こえる。ノボルがハッチバックドアを開けて、コーヒーを淹れてくれていた。

「へぇ。そうやってお湯を沸かすんですね。まるでキャンプみたいです」

「元々キャンプ用のガスバーナーだしな。俺だってこの時だけはキャンプ気分だよ」

 簡易的なガスバーナーと、それに組み合わせられる五徳。その上に置かれたポットが、ゆっくりと湯気を立て始める。

「さて、コーヒーでいいんだよな?」

「はい。ありがとうございます」

「なんのなんの」

 使い捨てのドリップパックを開けて、紙コップにセットする。この方式がもっとも楽に、もっとも美味しいコーヒーを淹れらられる方法だ……と、少なくともノボルは信じている。味など知らん。

「ほらよ。ソーハさん」

「いただきます」


 少し、不思議な感覚だ。紙コップから立ち上る湯気は、冷え切った身体に当たってわずかに気持ちいい。もっとも、紙コップそのものは熱くて持てない。なるべく淵を持って、そっと口元へと運ぶ。

 鼻に抜ける香りは深く、どこまでも神経を研ぎ澄ませてくる。味わいとしては苦いだけの安物っぽいが、決して嫌いではない。

 紙コップを置けば、再び感じる雨と山の匂い。人里で感じるそれとは違い、嫌な感じはしなかった。


「美味しいです」

「そいつは良かった。俺には味の良し悪しなんか分からないもんでね」

 ソーハはともかく、ノボルにコーヒーのこだわりなんか無い。というより、こういうところでもないと飲まない。ノボルにとってコーヒーとは飲み物ではなく儀式だ。味や香りではなく、淹れるという行為に意味がある。

 というわけで、ノボルも一杯飲み始める。

「うん。これこれ。山登りが終わったって感じがするんだよなぁ」

「いつも、終わってから飲むんですか?」

「ああ。始める前に飲むと、ちょっとトイレが、な」

「……山の中なんだし、その辺で済ませればいいのでは?」

 ソーハがそういうと、ノボルの眉がすっとつり上がった。珍しく眉間にしわを寄せた彼は、しかし瞬きひとつでいつもの顔に戻る。

 そして、いつものように優しく教えてくれた。

「山にも寄るかもしれないが、ここは自然保護区域だ。つまり、俺たち人間の場所じゃなくて、動植物たちの領域。そう決めたのも俺たち人間だ」

「え? えっと……」

「まあ、自分たちで勝手に決めたルールくらい、自分たちできちんと守ろうぜって話さ。たかがトイレくらいと思うかもしれないが、垂れ流すのは良くない。そういうのを気にする動物だっているんだよ」

 と、これは山登りのルールと言うより、ノボルのポリシーのようなものだった。動物たちを気遣っているというより、自分自身に嘘を吐きたくないという行動原理だ。


「まあ、携帯トイレをケチってるだけなんだけどな。あっはっは」

 そう笑って、彼はその話を締めようとした。しかし終わらせなかったのは、ソーハだ。

「ご、ごめんなさい」

「ん? 何がだ?」

「えっと、じつはボク、ノボルさんと会う前に、あの辺の道の奥で……」

「……まさか、したのか?」

「はい」

「……」

 こいつ、すげーな。とノボルは思ってしまった。男ならまだしも、女性がそのへんで用を足すのはそれなりに抵抗があるものだと思っていた。

 よほど限界だったのか、それともソーハが大雑把な性格なのか。立ってするならともかく、あれほど生い茂った茂みに座ることはできたのか。紙はどうしたのか……と、自然保護より気になることが多すぎる。

 まあ、しかし、一度信じたものを覆すのは難しいようで、

「そうか。まあ、終わったことは仕方ねーよ。俺も聞かなかったことにするから、忘れようぜ」

 ソーハが本当は男性なんじゃないか? という疑問は1ミクロンも頭をよぎらなかった。




 結局、雨が止むのは日暮れが近づいてからだった。ソーハが車内に滞在したのも、たっぷり2時間ほどになってしまった。

「あ、もうこんな時間ですね。すみません。長居をしてしまって――」

「ああ悪い。俺も全然気づかなかった。なんか、ソーハさんといると時間が経つのが早いな」

「えっと、雨も小降りになってきたし、ボク、帰りますね。お世話になりました」

「ああ、そうだな。じゃあ俺はちょっと外の様子を見てくるから、その間に着替えたらいいさ。つーか、乾いたか?」

「まあ、だいたい」

 残念ながら嘘だ。ソーハが着ていた服は、まだ乾いていない。せいぜいよく絞ったくらいの状態だ。

 だからと言ってこのまま服を借りるわけにはいかない。サイズも合わないし、ロードバイクで走っている途中にどこか引っかけたりしたら大事故になる。

 なので、濡れた服で帰るしかないだろう。

「それじゃ、俺はちょっと外の空気でも吸ってくるから、その間に着替えて帰っていいぞ。つーか、自転車で大丈夫か? 暗いけど」

「はい。夜通し走ることもあるので、ライトはばっちりです。……あの」

「ん?」

「また、一緒にお散歩しませんか?」


 ノボルにとって、山登りはいつだって一人だ。自分と山だけの世界。そこに誰かを誘ったことはない。

 友達と一緒にいるのが嫌いなわけではないが、それは別問題だ。一人きりの時間というのが、ノボルにとって大切なのだ。

 しかし、必ず一人じゃないといけないわけでもない。


「そうだな。たまにならいいぜ」

 ノボルがそういうと、ソーハはぱぁっと頬をほころばせた。

 見る者を恋に落としてしまうような、いろいろ罪作りな笑顔だった。

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