雨の日の車内

 結局、一枚しかないレインウェアを着たのは、ノボルの方だった。ソーハは能天気に、ずぶ濡れのまま歩いている。

「雨、気持ちいいですね――っくしゅん!」

「この季節に気持ちいいわけあるか。3か月早い」

「でもこの服、すぐ乾くから便利なんですよ」

「雨が上がれば、な。この雨は長引くぞ。知らんけど」

 地面はぬかるんで、早くも水たまりと泥だらけになっている。一部は川になっているほどだった。


「あ、この岩だらけの場所、雨が降ると川になるんですね」

「濡れると岩が滑ったりするから気を付けろよ」

「ボクの靴、それなりにグリップ力があるんですよ」

「靴と岩の心配じゃない。岩と苔が滑ることがあるって話だ。泥にも気を付けろよ。意外と泥自体が深かったり、逆に浅すぎて滑ることが……」

「わきゃっ!?」

「……身をもって理解できたと思う。それに懲りたらペースを落とせ。そんなハイペースに下り坂を歩くんじゃねーよ」

「は、はい……」

 泥だらけになりながら立ち上がったソーハが、服に着いた汚れを払う。……のだが、この雨の中では塗り広げるだけになってしまう。

「ノボルさん」

「ん? なんだ?」

「妖怪、泥人間」

「はいはい。楽しそうでいいな」




 駐車場に戻ってくる頃には、お互いにずぶ濡れだ。といっても、装備を整えていたノボルはさほど酷い状況ではない。

「さ、寒いですね。やっぱり」

「だから言ったじゃないか。濡れた格好で歩いてたらそうなるって」

「えへへ。風、冷たいです。ピリピリしますね」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ。いや、待て。ソーハさん。ちょっと手を貸せ」

「え? はい」

「うわっ。冷てぇ!? お前これヤバイぞ」

 さすがに、このまま帰して何かあったら困る。単純に寝ざめが悪い。

「俺の車に来い。ひとまず着替えを貸してやる」

「え? でも、大丈夫ですよ」

「いいから来いって。何ならお前の家まで送ってやるよ。自転車は積めないけど――」

「嫌です」

 珍しく語気を強めたソーハは、ノボルの申し出を全力で断った。そのまま駐車場のフェンスに向かうと、そこに刺さっていた(と形容するしかない)ロードバイクに縋りつく。どうやらそれがソーハの自転車らしい。

「ボク、この子と帰ります。置いていくなんてできません」

「後で雨が止んだら、またここまで来てやるって。鍵だってかかってんだろ。誰も盗みに来ないって」

「違うんです。この子は特別なんです」

 いつもはちょっと聞き取りにくいくらいハスキーな彼女の声が、今だけはハッキリと、しかも少しだけ男らしく聞こえる。……まあ、そもそも彼女は男なのだが(?)

 その語気とか態度などに圧されたノボルは、別方向で説得を試みる。


「じゃあ、せめて俺の車で一休みしていけよ。勝手に動かしたりしないからさ」

「え、えっと……」

「ちょっとだけだよ。着替えて、濡れた髪の毛を拭いて、それから温かいコーヒーでも飲んで行けって。もしかしたら雨が止むかもしれないだろ」

 まるで強引なナンパでもしているような気分になるノボルだが、これはあくまで放っておけない相手への気遣いだ。確かにソーハは可愛い女の子だと思うが、これっぽっちも下心はない。

 ソーハも、そのくらいならと思ったのだろう。

「そ、それじゃあ、あの……お言葉に甘えても?」

「もちろんだ。さあ、こっちにおいで。自転車は一回離して」

「は、はい」



 ノボルの持ってきた車は、意外にも軽ワゴンだった。

「てっきり、もっと大きな車を持ってるのかと思っていました。キャンピングカーとか、バンとか」

「まあ、キャンプとか車中泊の趣味は無くてな。登山とかやるから荷物は積めた方がいいんだが、それだって日帰りならこんなもんだろ」

 ソーハには少し外で待ってもらって、その間に後部シートにビニールシートをかぶせていく。今のソーハは泥だらけで、そのまま車に乗せるのは気が引けた。

「どうぞ。ソーハさん」

「お、お邪魔します」

 割と低い天井。狭いシート。あまりくつろげる場所ではないが、確かに雨風はしのげる。風が入らないだけでも、温かい。

「いっそ、その濡れた服も着替えちまいなよ。俺の服で良ければ貸すから……って、サイズ合わないだろうけどさ」

「ありがとうございます」

 大きなだぼだぼのトレーナーや、コートなどを拾い上げたノボル。そのまま助手席を前に倒し、なるべく着替えやすいように場所を作っていく。

「じゃ、俺はちょっとその辺を歩いて来るから」

「え? でも、雨ですよ」

「だからって、車内にいるわけにもいかないだろ。お前だって着替えにくいだろうし」

「気にしませんよ。ちょっと、確かに恥ずかしいですけど……こっちを見ないでいただければ」

 ソーハからしたら男同士なので、そんなに警戒もしない。もっとも、ノボルからしたら男同士じゃないのが問題なのだが。




「んっ。しょ……」

 小さな息遣いと、衣擦れの音。それらが雨音に混ざって、とても近くから聞こえてくる。

 運転席に座ったノボルは、後部座席を見ないように、前を向いて座っていた。

(な、なんってこった。無防備すぎると言うか、警戒心が無さ過ぎるぞ。ソーハさん)

 大人しく前を向いて、雨の落ちるフロントガラスに集中する。そうしてじっくり見ていると、視界の端にルームミラーが見えた。……ので、さっと視界を右に向ける。

(俺から言い出したこととはいえ、どういう類の空気だ?)

 空を覆う黒い雲は、周囲をより暗くしていく。ルームランプの明かりで、かすかに窓に車内が反射し始めた。

(ぜ、全部脱いだか。着替えももうちょっとで終わる感じかな……いや、これは断じて覗きではないからな!)

 どうしたらいいのか分からなくなったので、ついにはハンドルに腕を組んで突っ伏してしまう。これで何も見えない。

 見えなければ見えないで、タオルの擦れる音や、シートの揺れが気になるものだ。なんなら何の関係もない雨の匂いや、自分の勝手な想像までノボルの敵になる。


「あ、あの……着替え終わりました」

「おお、そうか」

 安心して振り返ると、そこには自分が普段使っている服を着て、落ち着かない様子で身体を縮めているソーハがいた。先ほどまで縛られていた髪も、今は下ろされている。

 タオルだけでは拭いきれなかった雫が、思っていたよりも長かった――と言っても肩にかかる程度だが――彼女の髪を伝って落ちる。

 そんな彼女が、

「本当に、ありがとうございます。ボク、何も持ってませんけど、ボクが出来る恩返しなら何でもしますね」

 なんて、笑顔で言うものだから、

(ああ、俺は今日、とんでもないものを乗せたんだな)

 ノボルにしてみれば、苦悩である。

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