ビンディングシューズ
ノボルは、後悔していた。
(なんで俺はあの時『足手まといになるなよ』なんて言っちまったんだ)
自分は登山歴2年の男性。対してソーハは、今日が初めての登山であろう女性。どう考えても実力差は歴然のはずだった。
(なのに、なぜっ……)
「ノボルさーん。こっちですよ!」
急斜面の上で、ソーハが元気に手を振っている。先ほどからずっとこの調子だ。彼女は常にノボルよりも前を歩き、10メートルほど先行してから合流を待ってくれている。
つまり、足手まといになっているのはノボルの方だった。
(冷静に考えれば、コイツはこの登山道がある峠を自転車で登ってきた化け物だった。さっきだって俺の後ろから追い付いてきた実績があるじゃないか。想定外だ。くそっ!)
すっかりプライドを踏みにじられ、鼻っ柱を折られたノボル。こういう時、事前に調子に乗っているほど恥ずかしさも倍増する。
自転車乗りの目は良い。単純な視力の話ではなく、周囲のオブジェクトを発見して確認する能力が高いのだ。動体視力とか、判断力などの類である。その能力は、山道で目印を見つけたり、地形を読んだりするのにも役に立つ。
荷物を持っていないぶん、機動性もあった。何より体幹が強い。どんな斜面にも対応し、踏み込みから着地まで姿勢を崩さない。
「山歩きって、楽しいですね」
「あ、ああ。そうだな」
「このまま山頂まで行くんですか?」
「まあ、雨さえ降らなけりゃそのつもりだ。雨が降ったら引き返すぞ」
「はーい」
このサッパリした性格と、過程を楽しめる趣向も、ノボルを唸らせた。これはあくまでノボルの持論だが、山登りは過程を楽しめるような人間じゃないと続かない。頂上の景色と達成感だけを支えにしていると、どこかで心が折れてしまう。
そういう意味では、ソーハは才能があると言えた。ひたすら歩くだけの時間さえ、彼女はとても楽しそうである。
「あ、あれって珍しい植物ですか?」
「そうかもな。俺も知らん」
「あの岩、なんかカエルさんみたいです」
「全然そうは見えないが……いや、ちょっと待て。ああ、その角度から見ると似てるかもしれない。奇跡の角度だな」
「あ、ヘビさんがいましたよ。可愛い」
「……変わってんな。お前」
「ヘビさんですよ。可愛いじゃないですか。くるくるしてますよ」
「待て。それはマムシだ逃げろ!」
「あ、危なかったですね。マムシさんって、初めて見ました」
「つーか、茂みの中は危険でいっぱいだぞ。そんなに脚出して歩くところじゃない」
「でも、レッグカバーは忘れて来ちゃったんですよ。うー、足首がチクチクします」
細かい繊維に引っかかる植物は、こういう山だと多い。それが靴下や靴の間に挟まれば、かゆみや痛みもするだろう。
木に寄り掛かり、靴と靴下を脱ぐ。そうして靴下を叩いたり、靴をひっくり返せば一時的にはマシになる。
「ん? ちょっと待て。その靴……」
ソーハの履いている靴は、靴底に大きな溝が刻まれていた。まるでトラクターのタイヤのように、石ころをとらえて離さず、泥にも食い込み、草も絡めて捉える仕様だ。そのつま先の方には、銀色の小さな金具がネジ止めされている。
「ああ、ビンディングシューズですよ。特殊なペダルと組み合わせて、ペダルに靴の裏がくっつくようになる自転車用シューズです」
「まるで俺たちが使うトレッキングシューズみたいな靴底だな。どうりで山歩きができるわけだ」
「これ、もともとマウンテンバイク用に設計されたらしいんですよね。ロード競技用のシューズだと、もっと裏面がぺたーっとした平面の靴もあるんですけど」
「なるほど。その靴もある意味では登山に向いていたわけか。見た目じゃわからないもんだな」
靴底の形状だけで言うなら、今ノボルが使っているブーツよりも強そうだ。
「あ、雨……」
「マジか?」
ソーハが曇り空を見上げるが、ノボルには何も感じない。いや……
「どうやら、本当みたいだな」
「あ、今のセリフ、カッコいいです」
「うるせぇ。そんなつもりで言ってねぇよ」
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちる音がする。今のところは木の葉に当たっているだけだが、そのうち受け止め切れなくなった雨水が大粒の雫となり、地面に降り注ぐだろう。
そのうちの一滴が、ノボルの顔に当たる。
「仕方ない。下山しようぜ。頂上まではまだまだ距離があるし、そもそも頂上からロープウェイと電車で帰るわけにもいかない。俺は駐車場にマイカー置いてきたからな」
「あ、ボクも自転車を取りに行かないと」
お互いに頷き合って、踵を返す。
「ところで、レインウェアは持ってきてるか?」
「いいえ。全然」
「だろうな。俺のを貸してやる」
「え? いえ、さすがに悪いですよ。それに濡れるのにも慣れてますから、大丈夫です」
「ダメだって。山の中は濡れたらきついぞ」
「じゃあ、ノボルさんが着てください。ボク、ちょっと先に行ってますね」
「いや、待て。おい!……あーあ」
静止も聞かず、そのままの格好で走り去っていくソーハ。一人で下りる気はないらしく、少し離れた所で立ち止まっては、こちらが追い付くのを待ってくれている。
が、しかしレインウェアを着る気はないらしい。
「子供かっつーの。……いや、子供か」
その溜息も、雨の音がかき消していく。一秒ごとに、天気が崩れているようだ。
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