出会いは崖の上

孤独な登山家

 不規則に生い茂った樹木と、足元を覆い隠す草。

 水平な場所などない、土と根に覆われた地面。

「次は――」

 一瞬でも気を抜けば、どんな事故があるか分からない。だからこそ、男は目を光らせる。

「そこか」

 目印となるのは、木の枝に結ばれたピンクのテープ。

 先人たちが残したこの目印は、点々と、しかし確実に、正しいルートを示してくれる。


 大学生になった町外 昇まちがい のぼるにとって、ここはとても心地よい場所だった。人工物のほとんど無い山の中は、自分を一匹の動物へと回帰させてくれる。地球が用意してくれた大自然の環境に、少しだけ近づける。

 しかし、近づけば近づくほど、その大自然と一体化することの難しさも感じる。文明に頼り切った人間は、文明を使わずに山を歩くことが出来ない。

「雨が降る予報も出てたな。ちょっとでも降ってきたら下山するか」

 春先の、まだ涼しい季節だ。標高1000メートルを超えるこの場所は、裾野にある人里よりもずっと寒い。

 ノボルは一見すると薄着に見えるが、意外としっかり着込んでいる。ウィンドブレーカーにジーンズ。その下には発熱素材のインナー上下セット。念のためにダウンベストも着ていた。

 冬じゃなくても、山は危険だ。備え過ぎて困ることはない。たった一人で登るなら、なおのこと、だ。

「まあ、別に山頂までたどり着かないといけない理由も無いし、な。こうして歩いた時間に意味があるだけだ。別に目標とか勝ち負けとか、そんなの関係ないし……」

 と、自分自身に言い聞かせる。これもノボルにとって大切な事だった。


 どんな趣味でも、やっているうちに本来の楽しみ方を忘れることがある。そうやって無理をした人から消えていくのだ。

 一握りの成功者たちは、必要な努力を積み上げて成功したか、あるいは運が良かったかのどちらかである。それを簡単に真似しようと思えば、取り返しのつかない失敗をする可能性も高まる。

 人知れずそうやって失敗し、誰にも知られず消えて行った人たちも多いだろう。


「――崖か」

 切り立った2メートルほどの崖。そこから斜めに生えている木に、ピンクのテープが巻かれている。右に、左に……つまりジグザクに登っていけばいい。そういう意味の目印だ。

「なるほど。よく見りゃ踏み固められてそうなところがあるな。行けそうだ」

 とても細い道だ。踏み外したらどこまでも転がってしまう。しかし、踏み外さなければどうという事はない。

 ストックをザックに下げたノボルは、時として地面に手をついたり、木の幹に掴まったりしながら進んでいく。

「思ったより大したことないな。地面も硬いし、崩れないみたいだ」

 誰に言うわけでもなく、独り言を繰り返す。自分自身に確認を取りながら、自分で判断を下していく。

 ちなみに、声に出すのも地味に意味のある行為だ。野生の熊などは、人間と突然遭遇すると襲ってくる可能性がある。逆に言えば、人間がいると分かっていれば近づいてこない。だから話しながら歩くのだ。

 クマよけベルも持ってきてはいるが、慎重な性格のノボルはそれだけに頼ったりはしない。常に二重三重の作戦を立てている。


 ようやく崖を登り切った時、目の前に立ちふさがっていたのは、倒れかけの巨木だった。もうすでに根元から折れているが、他の木に引っかかっているせいで倒れ切っていない。

「やれやれ。こういう障害物も自然ならでは、か。……できれば自然の環境に、手を加えたくはないんだが」

 ノボルの身体は大きい。身長は180センチを超え、肩幅も広く、筋肉質だ。おまけに大きなザックを背負っている。こうなったら隙間を通ることはできない。

「仕方ない。やるか!」

 ザックからマチェットを取り出した彼は、倒木の枝葉を切り落としていく。あくまで自分が通れるギリギリ程度の道を確保できればいい。人間の歩きやすさを優先しすぎれば、本来あるべき姿の自然が失われる。

 なるべく生きている方の木には当てず、倒木だけを狙って、数本の枝を打ち落とすつもりだ。


 その時だった。


「やるって、何をですか?」

 後ろから、低めの女性の声が聞こえる。ノボルはそれを聞いて振り返った。

(俺の後ろから、ついてきた奴がいる?)

 今まで気づかなかった。つまり、相手はハイペースに山を登り、遠くから追い付いてきたのだろう。

(おいおい。俺だって今日は雨が降らないうちにと思って、それなりにペースを上げてたんだぜ。それに追い付いて来るのかよ。女が……?)

 崖の下から、その姿がせり上がって来た。ノボルがそれなりに苦戦した崖を、一気に助走つけて駆けあがってきたようだ。短めのポニーテールが、高い位置でぴょこんと揺れる。


 その女性は、とても軽装だった。

 肌にぴったりと張り付くような、前開きの半袖ジャージ。少し長めの……と言っても、太ももを半分ほどまで覆う程度のスパッツ。そして薄い布地のオープンフィンガーグローブと、アンクルソックスと、スニーカー。

 舗装路を走るマラソンランナーならいざ知らず、こんな山中を歩く恰好ではない。まして、彼女はザックも背負っておらず、完全に手ぶらだったのだ。

 そんな彼女は、ノボルと出会ってすぐ、開口一番に叫んだ。


「ひっ、ひとごろしー!!」

「ちがーう!」


 初めて出会った人物に、殺人犯だと勘違いされる。そんな経験は、ノボルにとって初めての事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る