二日目
二日目。
東京に戻ってきた僕は、親戚たちと別れ一人暮らしのアパートへと戻った。
――騒がしい一冊の手帳と共に。
「ただいまっと」
帰ってきたアパートが乾いた空気共に僕を出迎える。
カーテンの隙間から差し込む日差しが室内に光の線を作り、キラキラと埃が舞って幻想的な程だ。
数々の思い出が散らばるこの空間が、僕に妙な安心感を与えてくれているようで、好きだった。
――と、まあ。いいように言ってみたけれど、埃が舞っていてゴミが散乱しているだけだ。
『ほう、此処がゆうくんが借りているアパートか。……ゆうくん、偶には掃除するんだぞ』
「だから汚いって言ったろ。おじいちゃんが死んだって聞いて一目散に北海道に向かったんだから、掃除する暇がなかったんだよ」
『カップ麺が積み重なっているじゃないか。あれは普段から片付けを怠っていた証拠じゃあないのか?』
「うっ……細かいこと言うなよ」
そんな取り留めのないやり取りをしながら、僕は引き出しを漁っていく。
大学生が葬式に出るときはリクルートスーツが相場のようなので、それを取りに来たのだ。
『掃除郎とも呼ばれていた私の孫がこれじゃあ、死に切れんなあ』
「ちょっと、笑わせないでよ。埃が舞う」
『婆さんがな、掃除が出来ない人でな。毎日掃除をしていたら達人の域に達したんだ。ゆうくんにも伝授してやろう』
「はいはい……あ、そう言えばさ――」
そんな風に言い合いつつ、僕は昨日から気になっていたことを祖父に尋ねてみることにした。
「――僕にくれたこの手帳なんだったの? おじいちゃんが使ってるのも見たことなし。大学生なら使うでしょって言われて、僕が貰うことになったんだけど」
確かに死んだ筈の、祖父との会話。
この不思議な状況を招いている手帳がただの手帳であるはずもない。
そんな僕の疑問に『……あれ、そう言えばその手帳なんだ? ゆうくん』「……え、おじいちゃんの形見なんだけど、一応」などと微妙な会話。
暫く考え込んでいた様子の祖父だったが、僕がリクルートスーツを発見すると同時に思い出したようだ。
漫画なら集中線が引かれそうな感じの太字で文字が刻まれた。
『あ、ああっ! 思い出したぞ!』
「お、ホント?」
『ああ、それはな、私が散歩している時に見つけた骨董品店で見つけたものなんだ。なんでも不思議な力があるとかで、詳しい説明は手帳の後ろの方に書いてあるって言ってた筈だ。不思議なことなんて何も起こらなくて、すっかり忘れていたぞ』
自信満々に答えた後、『不良品だったな。十万くらいしたんだが……』と愚痴を言い始めた祖父に、僕は何も言えずに固まっていた。
そして思う。
――もしかしたら僕のおじいちゃんって、阿呆なんじゃないだろうか。
「……それってこの状況のことじゃなくて?」
『あれ、そういうことになるのか?』
「はぁ……なんでそんな重要なこと忘れちゃってたんだよ」
そう言うと、僕は手帳の裏側を開いた。
そこには、確かに五行程度の文章が記されているようだった。
しかしインクが滲んでいるわけでもないのに、文字自体が上手く認識できないような感覚がある。
目を凝らしてみても良く見えず、首を傾げた。
「なんだこれ。見えないんだけど……」
『なに? 私には見えるぞ!』
「え? ……あ、もしかして、死んでからじゃないと読めないとかなのかな」
『……ふむ、その可能性はあるな。流石私の孫。掃除出来ないけど頭はいいな』
「もう掃除のことはいいだろ。それじゃ、何て書いてあるのか教えて」
『そうだな。いくつかあるから、順番に教えていくぞ』
そう言って祖父が裏面の説明を記し始める。
一つ。この手帳の持ち主は、死後49日間日記を介して現世と繋がることが出来る。
二つ。その事実を知られていいのは一人に限る。
三つ。それ以上知られてしまうと、現世に留まることは出来ず、また極楽へ行くことは出来ない。
四つ。持ち主と、現在の持ち主は双方の合意がある場合、一日に三十分まで精神の交換が可能。
『――その方法は、手帳で頭を叩くこと。以上! ……早めに知れて良かったな!』
「良かったな、じゃないが。めっちゃ大事じゃん」
『まあまあ、ゆうくん。そんなに細かいこと言うなよ』
「あ、真似した。まあ、結果的に知れたからいいけどさ。……っていうか、四つだけ? 五つあるように見えるんだけど」
『ん? ああ、そうだ。四つだけだな』
「そっか……まあじゃあ、どうする? 一日三十分だけって話だけど、早速入れ替わってみる?」
『え、いいのか?』
「え、いいよ。どうして?」
入れ替われるなら入れ替わってみたいだろうと思いした提案だったが、祖父からしたら意外だったらしく、驚いている様子だった。
なぜそんなことを聞くのかという僕の疑問に、祖父は達筆な文字に不安げな色を浮かべて答えた。
『そりゃあ……自分の身体に他の人が入るとか嫌じゃないのか?』
「まあ、嫌だけど。おじいちゃんだし構わないよ」
『ゆうくん……ありがとう。私が名付けた通りの優しい男に育ったな!」
「え、おじいちゃんが名付けたの!?」
そんな意外な事実に驚きつつも。
喪服どころではなくなった僕は、早速祖父と入れ替わってみることにした。
「じゃあ、早速やってみるよ」
『おうよ! どんとこい』
――パシンッ
という小気味のいい音を立てて、手帳で自分の頭をはたく。
すると、意識が朦朧とする感覚がする。
次に気が付いた時には、僕は『僕』の身体を外から見ていた。
端的に言えば、幽体離脱のような形だ。
同時に、手帳が祖父と現世を繋いでいるものだということも感覚的に理解することが出来た。
『へえ、こんな感覚なのか。……どう? ちゃんと入れ替われてる?』
「おおっ! おおお! 入れ替われているぞ!」
僕の身体の中に入っているらしい祖父が嬉しそうにそう叫ぶ。
暫くぶりの健康体に満足そうに頷いていた。
「ふむ。ゆうくんの身体は健康そうで何よりだな」
『まあそれなりに気を使ってるからね』
「カップ麺ばっかり食べているようだが?」
『その分運動してるんだよ。あと、キャベツとか入れてるからさ』
その言葉に納得がいったのか、おじいちゃんは再び嬉しそうに身体をペタペタと触り始めた。
「こんなに動きやすいのはいつぶりだろうな。頭も冴えている気がするぞ」
『そういうもん?』
「ああ、そうとも! ……どれどれ」
『やめろ! どこ見てんだ!』
幽体離脱したこの身体は現世に干渉出来ないようだ。
突っ込みを透かして叫ぶ僕に、祖父は笑う。
「はは、良いではないか。これでも昔はゆうくんのおむつ替えは私がしていたのだぞ」
「あまりにもオムツ替えが早くて、オムツ郎とも呼ばれていた」などと言い始めた祖父に突っ込むのを諦め、僕は手で顔を覆いため息を吐いた。
『まあいいや。それでさ、折角入れ替わったんだから好きなことしなよ。あ、でもタバコはやめてね。酒はいいけど』
「ああ、ゆうくんの身体に害を与えることはしないさ。私の大事な孫の身体だぞ」
『……そっか。それじゃあ、何かしたいこととかあるの?』
「ふむ、そうだな。とりあえず、今日やりたいことは決めた」
『ふぅん? なにするの?』
そういうと、祖父が入った僕の身体が自信ありげな表情を浮かべる。
僕ってそんな表情出来るんだ……なんて思っていると、祖父が口を開いた。
「掃除だ!」
自信満々に宣言されたその言葉に、僕は驚き口を開閉してしまう。
『い、いやいや! いいよ! 僕が後でやっとくからさ。もっとやりたいことしなよ』
「ならん! 孫がこんなに汚い部屋に住んでいるのはおじいちゃん、耐えられないぞ! ついでに掃除の極意を教えてやろう!」
『ええ……まあ……ありがとう、と言っておこうかな』
祖父は僕に要らない服を聞きだすと、それに着替え始めてテキパキと掃除をし始めた。
僕は祖父を止めるのを諦め、掃除の極意とやらを教わることに集中する。
夏の暑い日。
蝉の声がまだ煩いこの時期に。
いつもは静かな僕の家は、夏の蝉よりいっそう騒がしかった。
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