三日目


 三日目。

 どうやら手帳の祖父は眠くなることが無いらしく、昨晩は寝ずに話していた。

 といっても僕は眠かったし、いつもとは違う騒がしい夜に落ち着かなかったが――それでも、楽しい一日だったと思う。




 寝不足の顔を引き摺って洗面台へと向かう。

 鏡に映った自分の顔を見て、思わずため息を吐いた。


「はぁ……死にそうな顔してるな」

『ははは、私とお揃いだな』

「でた、死人ジョーク」


 祖父は自分が死んだことさえ、笑いにしてしまうのか。

 そのことに衝撃を受けたのは既に昔の話のように感じる。昨晩からこの手のジョークを既に数えきれない程浴びた僕は、もうこの程度では動じないのだ。


 バシャバシャと顔を洗い、タオルで水気を取る。

「ふぅ……」とため息を吐いて、手帳を見たときに気が付いた。


「ねえ、おじいちゃんってお風呂好きだったよね? 洗って上げようか」

『それって私、死ぬんじゃないか? 死んでるけど』

「はいはい……。まあ実際、ちょっと難しいか」

『風呂には入りたいがな。日本人としての魂がソレを求めているのを感じるんだ』


 そう言って温泉に浸かっている自分の絵を描き始めた祖父に、「器用だなあ」なんて感心してしまう。


「じゃあ、今度どっかの温泉行こうよ。入れ替われるって分かったし、楽しめるんじゃないかな」

『おおっ! それはいいな! 楽しみだ』


 少し興奮気味の祖父に、知らず口角が上がるのを感じる。

 意外と僕は尽くし体質なのかもしれない……と思ったが、それは祖父も一緒なのだろう。


 昨日とは変わり果てた姿の部屋を改めて見ると、「ほう」と感嘆の息が漏れた。


「それにしてもさ……おじいちゃん、本当に掃除が得意だったんだね。まさか三十分程度でここまで様変わりするとは」

『そうだろう? ふふ、私の掃除テクは凄まじいだろ』

「いやまあ実際、凄いよ。僕はテッキリ、おばあちゃんが掃除好きな人なのかと」

『婆さんはなあ……料理は世界一だと思うんだがな』


 話しながら、鏡面のように……と言ったら言い過ぎだが、それでもピカピカという表現がぴったり当てはまるフローリングを歩く。

 椅子に掛かっている着替えの服を手に取った。

 今日は祖父の家へと向かい、明日、祖父の火葬をすることになっている。


「スーツ着て行くのは暑いよな……まあ、普通の持っていくか。後は何が必要かな」

『水分補給は忘れずにな』

「ああ、そうだね。麦茶でも持っていくか」


 台所にある水筒を手に取り、自家製の麦茶を「トポトポ」と入れていく。

 我が家秘伝の味だ。

 と言っても、麦茶のパックを捨てずに三回使えば我が家の秘伝の味になる。


「三回目が丁度いいんだよな。家庭の味って言うか」

『娘は節約家だったからなあ。まあでも、三回目おいしいよな』

「うん、おいしい」


 味覚は遺伝するのだろうか、などと思いつつ、準備が整う。

 サンダルに足を通し、玄関を出た。


「行ってきまーす」

『行って来ます』

「……僕の家だし、おじいちゃんはお邪魔しましたじゃない?」

『孫の家は私の家だ!』

「暴論じゃないか」




 簡素な作りの駅を出る。

 祖父の家の最寄り駅だ。


 駅内の冷房は大した強度でもなかったが、ひとたび外に出てみるとそれがいかにありがたいものだったのかを実感せざるを得ない。

 大粒の玉汗が顎を伝って地面にシミを作った。

 堪らず持ってきた麦茶入り水筒に口を付けた。


「ふぅ……。暑すぎ……」

『ゆうくんはあまり外に出て遊ぶタイプじゃなかったからな』

「外に出るタイプでも暑いと思うよ……」

『私は暑くないがな、手帳だし』

「……」

『やめるんだゆうくん! 手帳で汗を拭こうとするな!』


 アスファルトからの照り返しに反撃で汗の玉を落とすが、言葉通り焼け石に水。

 最近流行っているサウナみたいなもんだ。


「ちょっと水風呂入らせて……」

『お、水風呂か。私結構好きだったな』

「嘘だろ……水風呂のなにがいいんだ」

『ゆうくん、暑さに頭がやられてるんじゃないか』


 風呂は熱いに限る。

 ただ、僕は確かに水風呂が得意ではないが、今に限っては身体がそれを求めているのを感じる。


『近くに浅めの川があるぞ』

「え、ホント? ちょっと時間には余裕もってきたし、少し寄っていこう」

『よし来た! あっちの道を右に曲がったところにあるぞ』


 その後、祖父の言葉に従って歩いていくと、すぐに小川があるところに出た。

 川のせせらぎが耳に心地よく、体感温度が下がっていくのを感じる。


 僕は小川に近づくと、サンダルを脱いで川の中に足を入れた。

 清涼な水が、知らず熱を蓄積させていた足を冷やしていく。

 思わず、ブルッと身体が震えた。


「あッ……ああ~ァ……。気持ちいぃ……」

『ふふ、この川は私が子供の頃からあってな。よく友達と遊びに来たものだ』

「へぇ、そうなんだ。……いいね、ここ。こんなところがあるなんて知らなかったよ」

『気に入ってくれたなら良かったよ』


 ――ジリジリジリジリ


 油蝉の声と川のせせらぎに耳を傾ける。

 静かで清涼感のあるこの場所では、先程の夏の暑さの不快感何て忘れてしまう程だ。


「……」

『……』


 祖父は何を思っているのだろうか。

 手帳に新しい書き込みはない。

 きっと僕と同じで、川のせせらぎだったり蝉の鳴き声だったり、そんなものに耳を澄ませて夏を感じているんじゃないだろうか。


 祖父がしたかった旅というものがどういったものなのか僕には分からなかったが、それでも、この49日間、悔いの残らないものにしたいと思った。


 日が落ち、オレンジ色の光が僕たちを照らす頃。


「……さて、おじいちゃん。そろそろ行こうか」

『……ああ、そうだな。ふふ』

「ん? どうしたの」

『いや、なに。ゆうくんとこういう時間を過ごすのは久しぶりだったから。嬉しくてな』


 夕日に照らされた田舎道を歩く。

 未だに残る川の感覚を足に感じながら、僕たちは祖父の家に帰った。


 玄関を開ける。


『ただいま』

「お邪魔します」

『ただいま、だろ。おじいちゃんの家は孫の家からな』


 祖父の言葉に、頬が緩むのを感じた。

 少し照れ臭かったが……間を置いて――。


「――ただいま」



 ……その日の夜は、僕と入れ替わった祖父が大量に酒を飲み始め、泥酔した僕は母親に叱られ親族に笑いものにされた辺りで記憶をなくしていた。


 許すまじ暴君。


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