祖父と手帳と49日

牛本

一日目

 

 一日目。

 ミンミンと鳴くせみの声がやけに耳にこびりついて離れない。

 それは東京行の新幹線に乗った後も、変わることはなかった。





 蝉の鳴き声がうるさいこの夏に、祖父は死んだ。

 僕に一冊の手帳を残して。


「……はぁ」


 北海道からの帰り道。

 東京へと向かう新幹線の中、黒革のそれを眺めていた僕は静かにため息を吐いた。


 実感が湧かない――というのが正直なところだ。


 もう一度ため息を吐き、手帳から視線を外す。


 車窓しゃそうから見える景色は綺麗なもので、それは毎年祖父母の別荘へと向かう際に見ていた景色と何ら遜色のないものに見える。


 通路を挟んで向かい側に座っている親戚の顔は酷いもので、車窓から見える景色とのコントラストに頭痛すら感じてしまいそうになる。


 ただ、それが今回に限っては良い方向へと働いたようだ。


「……優人ゆうと

「……大丈夫だよ。母さん」


 顔をしかめていた僕の様子を見て、心配そうに僕の背中に手をやった母親は、僕が祖父の死に心を痛めていると勘違いでもしたのだろう。

 こちらを気遣う様子を見せる母親に申し訳ない気持ちはあったが、しかし今はこれでいいのだと思う。


 親族の死に心を痛めないだなんて、おかしいのだろうことは僕にも分かっていた。


「……ちょっと、トイレ行ってくるよ」

「……うん」


 僕は母親や親族達の脇を通り、少し離れた位置にあるトイレへと向かう。

 実際のところ尿意や便意なんてものはなく、そんな必要はなかったのだが、少しあの場の雰囲気が耐えられそうになかった。


「あ、スマホ」


 少し歩いたところで、携帯電話を席に置いてきてしまったことに気が付く。

 その代わり、手に握られていたのは例の手帳だ。


「……まあ、どうせ戻ってもスマホ弄れる空気じゃないか」


 そう自分を納得させると、トイレの扉を開く。

 新幹線内のトイレは綺麗なもので、少し狭いが親族に囲まれていたあの空間よりも余程落ち着くように感じた。


 ――あんまり長居は出来ないけど、少し休憩しよう


 そう思い、便座に腰を掛ける。


「…………暇だな」


 手持無沙汰になった僕は、祖父の形見でもある手帳を開いた。


『トイレ中は見ないでおくので、安心するように』

「……ン?」


 手帳に書かれていた文字に目を疑った。


『お、ようやく気が付いたか。私、なんか手帳を通して話せるみたい』


 見ている内にも、手帳に文字が刻まれていく。


「うわああッ!?」


 思わず手帳をトイレの地面に叩き落としてしまった僕を、誰が責められようか。

 否、責められまい。


 思わず典型的な反語を使用してしまったことに謎の敗北感を感じながら、急いで手帳を拾う。


『すまんすまん、驚かせたか』

「えっ、いやっえあ」

『ははは、落ち着きなさい』

「いやっ、どういう……おっ、落ち着けって言われても」

『そういう時は深呼吸だ』


 驚き慌てふためく僕とは裏腹に落ち着き払った様子の祖父らしき文字の主に軽く苛立ちながらも、言われた通りに深呼吸をする。


「おえ」


 トイレの香りをめいいっぱいに吸い込んでしまった僕は思わずえずいてしまう。

 吐き気を抑えながら手帳に目を向けると、案の定文字が書き加えられていた。


『すまん。トイレだということを忘れていた。でもお陰で落ち着いただろう?』

「……落ち着いたというか、落ち込んだというか」

『はは、気の毒にな』


 手帳をトイレの中の水に近づけてやる。

 視界の端で、手帳に文字が高速で足されていくのが見える。


『まてまてまて! 私が悪かった、便器の水はやめてくれ!』

「はぁ……まあ、そんなことはしないけど。……ところでこれ、どういう状況なの? おじいちゃん……でいいんだよね?」


 僕が確認すると、手帳に文字が刻まれる。

 達筆なその文字は、祖父のものに酷く似ていた。


『そうとも! ゆうくんのおじいちゃん、十五夜もちづき宗次郎そうじろうとは私のことよ』

「やっぱりそうなんだ。……死んでもその調子なんだね」


 あとゆうくんって呼ぶのはやめて、と付け加える。


「まあ、なんでこんなことになってるのか全然わからないけど、本当におじいちゃんなら母さんたちも喜ぶよ。行こう」


 そう言って僕が扉に手を掛けると、手帳の文字が慌ただしい様子で更新された。

 余程急いでいたのか、普段の達筆っぷりからは想像も出来ないくらいの、ミミズが這ったような字の走り書きだ。


『まてまてちょっと待て。実はな、私のゆうれいとしての本能が言っているのだが、あんまり人に認識されてしまうと消えてしまいそうなんだ』

「え?」


 どういうこと? と聞く前に文字が続く。


『ゆうくん一人なら『気のせい』ということで済むようだが、複数人に認知されてしまうと私の存在が確たるものになってしまう。分かるか?』

「なんとなく」

『流石私の孫。……それで、そうなるとな。もう現世には留まることが出来なそうなんだ。分かるな?』

「分からないが」


 思わず突っ込みを入れる。


『兎に角、だ。今はまだゆうくんと私だけの秘密だ』

「……まあ、分かったけど」

『それにな、私が現世に留まっていられるのも時間の問題だ』

「どういうこと? ……あ、手帳の紙が足りないとか?」


 しかし、手帳は殆ど新品みたいなものだったはずだ。

 祖父が手帳を後ろから使うタイプの人間でなければだが。


『まあ、それは私が文字を小さく書けばよい話だ』

「それは……」


 なんかずるいな、という言葉は抑える。


「……じゃあ、何が問題なの?」

『49日だ』

「え?」

『私が極楽浄土に召されるまでの49日。現世に留まれるのはそれまでだ。今朝私が死んだから、今日を含めて丁度49日だな』


『0時ちょっと過ぎくらいに死んだ自分、よくやった』と自画自賛する祖父に再び突っ込みを入れたくもなったが、そんなことよりも、いきなり設けられたタイムリミットに僕は動揺を隠せなかった。


「あ、どっ、49日? っていうか極楽浄土は確定なんだ。よかったね。……いや、そうじゃなくてさ、49日だけなの?」

『ふふふ、寂しいか? ゆうくんは寂しがりだったからな。赤子の頃から「おじいちゃん、おじいちゃん」って私の後ろを付いてきていたものだ』

「……そういうの、いいから」

『ははは。つい、な。……まあ、そういうことだ。私が現世に留まれるのは49日だけ。死んでしまったのに49日も現世に留まれるのは、幸運だと思っているんだけどな』

「それは……そうなんだろうけど……」


 僕は思わず視線を落とす。


『そこで、だ!』


 そんな僕の様子に気づいたのかどうか、力強い文字が手帳に刻まれる。


『私、ちょっと旅をしたいと思っていてな』

「え……旅?」

『そうだ。私、わが生涯に一片の悔いなしだと思っていたのだけど、やってみたいことがまだまだあることに気が付いた』

「……そっか」

『そこでなんだが……。ゆうくんに私を旅に連れて行って欲しい。……頼めるか?』


 そう不安げに書き込まれた文字を見て、僕は思わず笑ってしまった。


「――もちろん、いいよ。悔いの残らない旅にしよう」


 その言葉に数秒、をおいて――。


『――ありがとう。流石私のゆうくん。優しい男に育ったな』

「ゆうくんはやめて」


 こうして、僕と祖父の49日間の旅が始まった。




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