第5話 昔々あるところのはなし

 浮上した意識のままに目を開けるけれど、まだ夢心地。

 ここはどこ? 

 またたけばわかった。丘の上。だけど桜の大木はない。

 丘を見下ろす私は宙に浮いてるのかしら。ふわふわとおぼつかない体を浮遊感に任せたまま、景色をぼんやりと見る。


 冬なのか、丘はさみしい枯れ草色。

 遠く聞こえるのは争いの声。

 現実味のうすい騒ぎを背に、よろめきながら丘を登るひとりの兵士。

 ふらり、倒れた彼の頭からはおびただしい量の赤色がこぼれ落ちていて、閉じた片目はきっともう使い物にならないのだとわかる。


 あれは、ひとつ目?


 どうしてそう思ったのかはわからない。

 ただ、古ぼけた脛当てや申し訳程度の胸当てを付けた青年の背格好に見覚えがある気がする。


 倒れた彼に駆け寄ろうにも私の体は動かなくて、ひとりはらはらするばかり。


 そんな私になんて気づかずに、ひとつ目はゆるりと頭をもたげた。

 その視線の先、丘のてっぺんにひょっこり生えた一本の木の枝。

 細い枝先にひとつだけついた、うす桃色のちいさなつぼみ。


 ああ、あの木は姫の桜の木。

 理屈じゃない、感覚で理解した。


 だったらこれはずっと昔の記憶なんだ。

 桜の大木が生まれたばかりの小枝だったころの記憶。ひとつ目が人だったころの記憶。


 こぼれ見ているだけの私にできることは無い。

 そう自分を納得させた私の視界の先で、ふるえながら持ち上げようとされていたひとつ目の指先が地に落ちた。


 どうにか持ち上げていた頭もぐったりと地に伏して、とろとろとこぼれた赤い命の雫が桜の若木の根元に染みていく。


 ほう、とこぼれた吐息は桜の木から。

 若木の枝先から乙女が芽吹くように身を起こし、儚く透ける顔をひとつ目に寄せた。

 その麗しい顔は、私の見た大木の姫と変わらない。

 けど、横顔の儚さは今にも大気に溶けて消えてしまいそうなほど。


 目の前に現れた美しい怪異を彼は見たのだろうか。

 もはや息があるのかもわからないひとつ目の開きっぱなしの瞳に姫の姿が近づいて、倒れた彼に口を寄せる。


 くちづけるの? と、どきりとするほどの距離で、姫の唇がかすかにひらいた。すう、とちいさく身じろいだのは、ひとつ目の最期の呼気を吸い取ったのだろうか。


 じわりと姿を明確にさせた姫の瞳がくるりと動いて私を捕え、景色がばらばらと形を変える。

 

 春。芽吹いた若草のやわらかな緑に囲まれた木のそばに、ひとつ目の面をつけた男がぼうっと立っていた。姫の姿はない。


 梅雨。しとしとと降り続く雨の冷たさから若木を守ろうというのか、夜闇のなか寄り添うように座るひとつ目の姿があった。


 夏。強い日差しを背で受け止めて、ひとつ目は自分の影のなかで風に揺れる桜の枝を見つめてる。


 秋。紅葉してはらりと落ちた葉をつまみあげるひとつ目は、どことなくさみしそう。ひざに集めた落ち葉は、もしかして桜からこぼれた葉っぱをみんな集めてるのかな。


 冬。冷たい風が吹き抜ける丘のうえ、一枚きりの羽織もので桜の木を覆うひとつ目。むき出しの背中はひどく寒そうだけど、お面の下にちらりと見える彼の口元はどこか満足げ。


 巡る季節が早回しで再生されて、景色がまるで万華鏡のようにくるくる変わる。


 くるくるくるくる、景色が移り変わるごとに桜の木はぐんぐん成長を続けていって。

 変わらない姿のひとつ目がずっとそのそばで桜を見守っている。


 桜の背丈がひとつ目の頭を超えていくらか経ったころから、儚い姫の姿も枝先に現れた。

 そこからは、虚空を見上げる姫とそんな姫を見上げるひとつ目の姿が続いていく。周囲の景色が移り変わるなか、桜の幹が成長を続けるなか、ふたりの立ち位置はずっと変わらないまま。


 ふたりきりの閉じた世界。

 

 ひとつ目は地縛霊、みたいなものなのかな。地縛妖? 姫に血を吸われたせいでそうなっちゃったのか、彼自身の意思でそこにいるのか、気になるところ。

 なんにせよ、すっごい過保護、って思っちゃったのは私だけ? すくなくとも、ひとつ目が姫に執着してるのはよーくわかった。


 これは誰の記憶なんだろう。

 そう思ったのが伝わったわけじゃ無いんだろうけど、ずっと無音だった景色に声が聞こえた。


「どうすればあなたは答えてくれるんだ」


 平坦に響いたのはひとつ目の声。


「ずいぶん待ったのに未だ振り向いてもくれないのはなぜなんだ」


 にじむ寂寥。


「何が足りない」


 焦燥。


 そこまで感じ取ったとき、私の体がぐんと引き寄せられる感覚があった。

 夢見心地が吹き飛んで、途端に返ってくる現実味。


 だけど目の前にいるのは、現実離れした美しい顔の桜の姫。


 つるりとした瞳が私をとらえてる。

 ひらり、桜色の唇が開く。

 

「あなた、知らない香り。きっとわたくしを満たしてくれる」


 うすい花びらが鳴るような声を聞いた瞬間、私の体の自由は失せた。


 ううん、姫の声に身を委ねただけ。

 美しい桜の化身に取り込まれるなら、本望だもの。


 とろけたような思考のなか、姫の腕が私に向かって伸ばされる。

 ああ、うれしい。


 歓喜に震える頭のどこかで、何かが聞こえる。


「……」


 遠い音。ううん、誰かの声。ピリピリと意識を揺らすその声のせいで、頭のなかを姫でいっぱいにできない。


「……っ」


 また聞こえた。目の前の姫にすべてを明け渡したいのに、誰かの声がそれを邪魔する。

 声、声……?


「だれ、の……」


 つぶやきが自分の耳に入って、記憶を刺激する。

 はじめに思い起こされたのは黒い色。つややかな濡れ羽色が、姫のあわい色に染まろうとしていた意識を塗り変えていく。


「てんぐ……そう、てんぐの」


 黒い色は羽根の色。じゃあその羽根の持ち主は?

 浮かんだのはたくましい胸板。それからくちばしのお面。そのうえにのぞく切長の目で、呆れたような視線を私に向けていたのは。


「しゃくま……」


 まだ馴染むほど呼べていない名を舌で転がせば、どこかでパキンと音がした。

 そして広がる黒い羽根。

 烏じゃない、だけど烏の濡れ羽色。


「ミヅキ!」


 私を呼ぶ声とともに景色を割り砕き、天狗が飛び込んできた。

 伸ばされた腕が私を抱き止めて、姫から引き離してくれる。


「シャクマッ」


 彼の名を呼んで、その腕に必死にすがりつく。

 しっかりと受け止めてくれる腕の力強さに、安心して身を任せた。

 

 

 

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